月刊ライフビジョン | 家元登場

漱石さん

奥井禮喜

妙なる古書巡り

 四半世紀ほど前に、岩波の『漱石全集』(全34巻)を古書店で購入した。たまたま漱石さんの『文学評論』を探していた。単行本が見つからず、金沢の古書店にあると知った。問い合わせると、全集のなか第19巻である。お値段千円。しかし1冊抜けると後が売りにくいと言う。それはそうだ、全集34巻の価格を問うと、4千円である。書棚は小さいし、欲しいのは19巻のみだが、安い。全集を購入した。1956年版でピカピカではないが十分満足できるものが届いた。全集だから小品や書簡、講演、日記などあり、お値段も安かったけれどその内容の豊富さに小躍りせんばかりで、たぶん、半年ほどかけて全部読み通した。『魯迅選集』(13巻)を神田古書店で見つけた。店の外に放り出してあって、千円のメモがついていた。1冊の価格かと思いきや全部で千円。なんともったいない。しかも安い。古書店めぐりが好きになった。以来、漱石・魯迅をしばしば読む。

平凡を非凡に転ずるの術

 たまたまライフビジョン学会読書会で漱石『それから』(1909)を読む。『三四郎』(1908)、『門』(1910)と合わせて三部作といわれるので、他の2冊を読んだ。調子づいてというか、漱石さんの魅力に引きずられて『彼岸過迄』(1912)、『行人』(1913)、『心』(1914)、『明暗』(1916)へ、読書週間前の「漱石週間」となった。小説は、天下国家を述べる大説ではない。嘘を書いて真実を描くという。1週間漱石さんに密着していると、天下国家よりもはるかに大きい世界が見えてくる。漱石さんは「文学はわたしのtasteの発表である」と記した。tasteは、審美眼であり、判断力であり、たしなみであり、人生におけるセンスである。Taste differ(十人十色)の人々に対して半端なtasteを開陳しても訴えるものは弱い。その吸引力は、第一に漱石さんの全力投球にある。ドラマの舞台は極めて平凡である。平凡が非凡に転換するのは、なんと言っても人間に肉薄するからである。

読み手は渦中に紛れ込み

 漱石さんとて、小説は嘘話である。極論すれば、人々が小説を好むのは事実ではないからである。もちろん、自分自身でもない。だから、大方の読書子はドラマツルギーの面白さに魅かれる。燦燦と輝いていようが、真っ暗の悲惨であろうが、作り話で自分と無関係だから冷静に楽しめる。嘘は現実離れして、珍奇なほど面白い。ところが漱石さんの作り話は極めて平凡、日常的に、ひょいと目にするような場面の連続である。それでは面白くないはずなのだが、その平凡かつ日常的な物語の展開がミステリアスであり、サスペンスなのである。新聞の読者相談など足許に及ばない。読み進むうちに、自分が渦中に紛れ込んでいる。紛れ込んだら最後、ことは現実であって、冷静に楽しむどころではなくなる。小説は小説家のモノローグであるが、気がつけばダイアローグを通り越して、読み手のモノローグが始まっている。読者は、読み手から思索者へと歩んでいる。

生まれたからには何をかやせむ

 漱石さんの小説家活動は『猫』(1905)に始まって『明暗』に終わる。未完の『明暗』まで11年である。漱石さんは1867年に生まれて、1916年に亡くなった。作品は日露戦争から、第一次世界大戦のさなかの間に書かれた。『それから』が書かれた1911年に「道楽と職業」(明石)、「現代日本の開化」(和歌山)、「中身と形式」(堺)、「文芸と道徳」(大阪)の講演をした。1914年「私の個人主義」(学習院)の講演の5つを読むと、100年後の今日も、日本人が前近代と近代の間でうろちょろしているみたいである。漱石さんは西欧近代の「個人」と、前近代の日本的なるものとの衝突のなかで、人々が人生の活動において「耐力」を獲得していくように、カタリスト(触媒)としての文学を追求した。偉大なる暗闇のなかで「この世に生まれた以上、何かしなければならん」と決意して活動した漱石さんは、後輩に、「火花は一瞬、牛のように根気で押せ」という言葉を残した。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人