論 考

プーチンも羨む?

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 プーチンが大統領5選を果たした。わが新聞各紙はいずれも、強権体制による選挙であり、民主主義の偽装であると批判する。その通りである。あんなものは民主主義に名を借りたロシア的パロディである。

 しかし、プーチン支持がすべて強権誘導によるものではない。やはり圧倒的多数が支持しているから、強権抑え込みが成功するわけで、支持者にすれば強権誘導がなくてもプーチンに投票しただろう。

 やせても枯れても、いや目下お休み中であっても、ロシアの人々は、かつてツアーを打倒したし、その後の革命が失敗したあとをうけて、民主主義革命に立ち上がったのである。日本ののほほん民主主義の歴史とは大いに違う。

 逆に考えれば、そのような人々が相手だから、プーチンは官僚体制を総動員して、その体制において好都合な官僚人士を引き締め、人々に体制支持のわっばをかけようとするのである。

 代議制民主主義は選挙で議員を選ぶのだから、不正選挙であれば議員の正当性はない。だから、選挙違反が厳しく取り締まられるのだが、選挙で不正がなくても、政治において不正が幅を利かすのであれば、民主主義でございますと威張るわけにはいかない。

 現実を見れば、正統・正当な選挙で登場してきた政治家が不当な「活動」をやって、しかも政治にはカネがかかるとうそぶいている。プーチンは「正統制なき圧勝」(朝日社説3/19)だが、こちらは「正統性ある(選良諸君の)犯罪」である。

 つまり、正々堂々の選挙が展開されていても、正々堂々の民主政治がおこなわれる保証はない。しかも、ことが露見してからすでに3か月、「自民党大会 首相の危機意識が感じられぬ」(読売社説3/19)と、批判されている。

 わが人々の政治家に対する意識には、いわゆる英雄待望論が強い。メディアなどで、ちょっと露出度が多くて、リーダーシップがありそうなポーズをとると、次期首相候補(?)に擬せられたりする。まことに軽い。

 人々が、強制されずして自主的に政治家に「お任せ」しているのを見れば、プーチンはどう言うだろうか?

 「日本人的なら支配するには非常にたやすい」と、羨望をもって語るのではなかろうか。