月刊ライフビジョン | 家元登場

職人さんの心意気

奥井禮喜

ものづくりの源泉

 「品物はあたしより長生きするんだからね」。これ、ざっと60年前、1960年代にベテランの持ち味をふんだんに発揮しておられた指物師の言葉だ。指物師は、木の板を指し合わせ組み立てる家具・器具――箱・机・箪笥・火鉢などを手作りする職人である。昨今、職人はもとより指物師という言葉は、あまり使われないが、品物を自分の精神と身体で作る。「ものづくり大国」などというようになったのは、うんと後のことである。手繰れば、職人さんの心意気と仕事ぶりがものづくりの源泉だ。品物は制作者の手を離れて品物の人生を辿って行く。優れたものは評価され、愛用され、使う人の人生の伴侶ともなりうる。無機質の品物の人生を思い浮かべつつ制作する職人は、すでにものづくりの世界を乗り越えて、品物を使うであろう見ず知らずのどなたかの人生に迫りつつあるみたいである。「製品を作る前に人をつくる」という言葉の心地よさが聞こえてくるではないか。

自分を作るのは結局…

 庭師は「庭というのは育つものだ」と語る。もちろん、草木を扱うのだから育つのは当然だが、それをいうのではなく、森羅万象悉く変化して止まらない環境と共に育つという心意気だ。庭の「石に命を吹き込む」ともいう。小手先ちょいちょいでは、うるさい芸術家肌の通人ばかりでなくそこいらの庶民すらもだますことはできない。3トンもある大石の配置が気に入らないとして、人をかき集め、10センチほど移動させた庭師もいた。そうかと思えば、豪壮・豪華な庭よりも、自然な小庭を納得できるまでつくるほうがもっと難しいという。こうなると、哲学の世界である。然り、しかり。有形無形にかかわらず人間が生産するのであり、ものをつくることは、つくる人間の全人生がかかわっている。技術といい、技能といい、ものをつくりだす人間の生き方・ものの考え方を抜きには考えられない。自分をつくるのは、結局、自分自身である。ものづくりは、人づくりというべきだ。

みんなの力が集まってこそ

 ある大工の棟梁は語った。「家ってものは1人では建たない。みんなの力が集まってこそだ」。これは前の2人と比べると平凡に聞こえるかもしれない。そして、「ここでは小僧でも、実家へ帰ればみんな大事な息子だ」とも。これまた平凡には違いない。平凡とはどこにでも転がっている真実である。しかしながら、昨今現実社会において、このような言葉を語る経営者や管理職にお目にかからない。平凡すぎるから語らないのであろうか? いや、どうもそうではないだろう。「職場ってものは1人では成り立たない。みんなの力が集まってこそだ」ということが十分に知れ渡っており、当然の事なんだからそれを当然のこととしてやろう、というような気風が感じられないのが当然の雰囲気ではあるまいか。まさしく、昨今、かつての平凡な言葉が非凡な響きをもつように感じられる。このような平凡がないところの「ものづくり大国」とはいかなるものでありましょうや。

道理のあるものづくりを

 「英知に専念する者のみが閑雅を有する」という言葉を残したのは2千年前のセネカだ。英知とは、深遠な道理を悟りうる優れた才知の意義である。深遠な道理を悟る人は少ないだろうが、道理を理解しようと努めることは誰にでもできる。道理を理解せんとする生き方を掲げる人は閑雅を有する次第である。かつての職人さんたちは、道理のあるものつくりを通じて閑雅をもった。閑雅をもったからさらにものづくりにおいて作品を残し言葉を残した。閑雅(=余暇)は価値あるものであり、はたまた、その価値を決定するのは、自分自身である。経済学では、余暇=財である。だから、働くことは自分の財を削るのである。政財界流「働き方改革」が叫ばれている。標題はそれなりだが、中身にまるで哲学らしきものが見当たらない。なんとなれば、働き方改革をなすのが人間であり、人間なのに閑雅とまるで無縁に生きているということに関してなんらの痛痒を感じていないからである。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人