月刊ライフビジョン | 家元登場

後退するデモクラシー

奥井禮喜
二大政党から多党化へ

 ドイツ連邦議会選挙はメルケルさん率いるCDU/CSUが第1党を守った。連立を組んでいたSPDと併せて得票率は54%だから二大政党時代が終わり、多党化時代になった。議席がなかった極右政党AfDが11%得票して第3党につけたのが嫌な雰囲気だが、さっそく内紛で、人気が高いペトリ共同代表が離脱した。ドイツの人々のデモクラシー意識が作用したと思う。ロイターは「シュトゥルム(嵐)もなくドラング(怒涛)もなくメルケルのオーラ」が目立ったベタなぎ選挙であったと評し、BBCは「メルケルにとって虚ろな勝利」と評したが、いずれもメルケルさんに代表されるドイツのデモクラシーに対する期待が書かせた論評である。難民問題と反EUの動きが痛撃しているからメルケル陣営の善戦は間違いない。05年にメルケル政権がCDU/CSU+SPDの大連立を組んだとき、批判が63%あったことを思えば、まだ十分に余裕がありそうだ。

後退するデモクラシー

 アメリカの老舗NGOのフリーダム・ハウスが、この間世界のデモクラシーが後退しているという報告書を発した。たまたまその期間はメルケル政権発足当時からである。メルケルさんが右顧左眄せず、難民問題、反EU問題、そして世界のデモクラシーの中心的作用を果たしたことに瞠目する。選挙のコピーに「Die Mitte」が掲げられていた。「中心に」という意味だろう。選挙戦のコピーというよりも世界のデモクラシーの中心でがんばってほしい。メルケルさんが世界に向かって発し続けてきたメッセージを考えてみた。わたしは、4つあると思う。いわく、「知性」「理性」「寛容」「連帯」である。デモクラシーが揺らぐのは、この4つの言葉が社会的に機能していないときである。P・ヴァレリーは、人々が自由な生き方のためには、自分中心主義でなく、「寛容」を必要とすることに気づいたのは19世紀半ばくらいだという。まさにデモクラシーと深くつながっている。

日本政治再生への道

 「知性」は、人が知覚することをいかに認識するかである。社会の知性低下が心配されるのは、人と人が交換する言葉が不正確な場合である。言葉を発する側が言葉の意味を正確に理解していないと、言語明快・意味不明になりやすい。とりわけ政治家が発する言葉は正確さと丁寧さが不可欠である。安倍氏並びにその一統は時間潰しのために喋っているみたいであるから、日本人的知性の向上には極めて悪影響を及ぼしている。「理性」は単純にいえば思慮深い行動をすることである。これは、01年、小泉氏が首相就任したころから目立って不遇な扱いである。「剛腕のリーダー出でよ」とか、「決める政治」などの言葉の露出度とも関係がある。剛腕を演技するためにワンフレーズ的言葉を喋る政治家が後を絶たない。当然ながら「決める」のはポーズだけで、問題をじゃんじゃん先送りする。今回の大義なき解散が、デモクラシーの再生に貢献するかどうかは国民次第である。

寛容と連帯

 「寛容」とは人を受け入れることであり、「連帯」とは人とつながることである。寛容なくして連帯はできず、連帯する志なくして寛容は育たない。小泉氏が敵と味方にわける政治スタンスを貫いてケンカ上手と囃された。敵と味方なのであるから、武器を使わずとも常時戦争しているわけで、このような状態では熟議のポーズがあっても中身が伴わない。その結果、問題先送りか、乱暴な意思決定が日常的光景となっている。つまり、自民党的愛国心は、「寛容」と「連帯」を伴っていない。むしろヘイトスピーチと深いところでつながっているみたいだ。はたまた財界人は利潤獲得には血眼だが、社会を担う働く人々の活力ある生活には関心が低い。だからこちらも愛国心は疑わしい。かくしてわが社会は、「知性」「理性」「寛容」「連帯」の4つの言葉と疎遠な気風に支配されている。個人は限りなく無に近いが、その個人が社会を作ってきた。4つの言葉の再生を、わたしはめざしたい。


 ドイツキリスト教民主同盟 (CDU)      バイエルン・キリスト教社会同盟 (CSU)

ドイツ社会民主党 (SPD)         ドイツのための選択肢 (AfD)