月刊ライフビジョン | 家元登場

研究活動の力 (ちから)

奥井禮喜

形のないものを追う

 研究活動を生業とする学者・研究者の雇止め問題は社会にとって深刻な意味をもっている。大会社はいずこも研究開発部門を擁している。研究活動からわが社の将来の柱となる新商品の種を探そうという狙いだ。研究室へ行くと、至る所に雑然と書類や、なにかの部品らしきものが置いてある。結構広い机の上には実験器材が置かれているのではあるが、ただ置いてあるのか、なにかの実験中なのか門外漢にはさっぱりわからない。もちろん、比較的短期間の種探しもあれば、商品化できるのかできないのか、山のモノとも海のモノともわからないような宝探し! もある。宝探しと書いたのは、ヤマを当てるというような意味ではない。1つひとつ、精緻丁寧に課題を克服していく。研究にかかわる人々の熱心、打ち込み方を見ているだけでも元気が出るような気がした。形のないものを追う。形が出来上がるのがわかっているのとはひと味もふた味も違うのである。

自由闊達の (ちから)

 ざっぱくな体験ではあるが、研究活動にかかわる人たちが活発なときは好況であり、企業活動はおおいに活性化していた。当たり前である。研究活動に精出せと発破がかかるときは、費用対効果よりも結果を出すことに力点が置かれている。研究活動にかかわる人たちも自由闊達にやれる。ところが、全社的に経費削減だの、費用対効果に関心が集まると、利益からいちばん遠い研究活動に向けられる視線は冷たい。そうなると、研究部門だけではない。バリバリに稼いでいる部門以外はどうしても意気消沈する。儲かりにくい部分が意気消沈したからといって、儲かる部門の意気が格別上がるわけでもない。全社的に気分がちんまり縮小しやすい。力のある企業は耐えて研究活動を継続する。そうでない企業は開発力も縮小して、むしろ不況時ほど企業間格差が拡大する。結局、研究活動の内容や質について理解している経営者はきわめて少数派ではなかろうか。

「力」とはアート性

 話を戻そう。研究活動を生業とする学者・研究者が多いのは、大学やさまざまな研究機関である。こちらは企業とは異なって、研究活動自体が活発かどうかはその組織の将来を担っている。大学であれば、育成する人材を引き上げるレベルに大きく差がつく。大学の国際比較が本当に意義があるのかどうかはわからないとしても、さっこん、わが国のハイレベル研究論文提出数の低下や、大学ランキングの高い大学が決定的に少ないのは、その組織の問題としてだけではなく日本社会全体の学問・研究力の低下というしかない。政府は、なにかといえばカネを出し、口を出すが、国策半導体会社の行く末を楽観する人はいないだろう。投資を大きくすれば必然的に技術進歩が加速するというものでもない。かりに巨額の投資をしても、それを使いこなす技術者(力)がなければかなわぬ夢でしかない。日本の開発力・技術力・創造性=アート性は上昇機運にあるのだろうか。

やはり「考える力」

 5月3日に、全米脚本家組合WGAが1万人以上参加してストライキを敢行した。さいきん話題のAI、チャットGPTが脚本を書いて仕事を奪われると抗議している。報道に接して、2つ印象的な言葉があった。第1は、人間が過去に言った言葉を吐き出すだけなんてアートではない。その通りである。いかにたくさんの資料を集めて整理した結果だとしても、それはすべて過去の集積でしかなく、芸術活動がもっとも大事に挑戦するところの創造性とは無縁である。第2は、使えば便利というような問題ではなく、人間がAI化するという危惧である。単純な話、CD機の操作をしているのは使いこなしているともいえるが、実は、マニュアル通りに人間が反応する⇒AI化しているといえなくもない。研究開発というアートに象徴されるごとく、人間の最高の価値は、自分が「考える」ということに尽きる。考えることの芸術性に気づく人が多いから活力ある社会ができると思う。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人