月刊ライフビジョン | 家元登場

日本は集団主義か?

奥井禮喜
群れの論理

 1960~70年代には、日本人は集団主義か否かという話題がしばしば語られた。単純にいえば集団主義とは、集団(群れ)の論理がすべてに優先し、正統派はそれに忠誠心を発揮する。「あの人はユニークだね」と言われれば、群れの論理に外れているという意味で、ユニークさをほめられているのではない。「変わった奴」とほぼ同義語である。いまなら「KY」とよく似ている。ところで、若者は学校時代に、「自分の思うところを堂々と述べよ」という調子の話をよく聞かされた。その背景には、民主主義の根本である人間の尊厳=個人主義があるが、そんなところまで掘り起こして話す大人はまずいない。単純率直な性格ならば、「そりゃそうだ、自分が一番」と短絡する御仁もいる。また一方では、何でも彼でも群れの論理に従っておけばよろしいと確信する人もいる。どの程度意識的かはともかく、ざっと見れば反ユニーク派が多数派である。

群れの規範

 大方の組織は縦社会である。若者から見れば、先輩・上司が縦社会そのものとして登場する。はじめのころ若者は、縦社会に不慣れである。子ども的やんちゃを残している面もあるから、群れの習慣に少なからず違和感を持つ。わたしらが入社したころは、「仕事は盗め」という規範が残っていた。わからないことを先輩に聞くと、「自分で考えろ」と突き放される。若者は、「そんなもん、自分でわかるくらいだったら聞くか」と反発する。目に見える仕事であれば盗めるが、そうでなければ結果は見えても、過程がわからない。どんな梯子(勉強法)があるのか知らないのだから始末が悪い。これは、技術教育の方法についての問題だが、先輩は、ただ群れの規範として突き放すのだから、客観的には矛盾、本人は不満が拡大する。集団主義ならば、若者が仕事をこなせなければ集団のマイナスだから、わかるように導くのが当然である。意外にも、ここでは個人主義なのである。

群れの雰囲気

 すったもんだ、なんとか丁稚段階を通り過ぎて多少の自信もつき生意気になると、いかにも上意下達の群れの雰囲気が気に入らない。若い時代の親しい仲間の大方は、上意下達に少なからず不平不満を抱えており、これが組合活動でも1つのエネルギー源であった。某くんは「あなたはどうして先輩に議論ふっかけるんですか。無駄ではありませんか」と疑問を呈する。「間違えているか?」、「同感ですよ、でも仕方ないじゃありませんか」。相手が先輩だろうが、上司だろうが、正しいと思うことは主張する。それがコミュニティにとって有益だからだ。もし、こちらが間違いだと気づけば謝ればいい。という理屈には、某くんは与しない。(組織の)上意下達に唯々諾々従う某くんは、傍目には集団主義者だが、自分が嫌われるとか、損することはしないという立派な個人主義である。どうやら集団主義を支えているのは、建前と本音の使い分けが上手な個人主義者らしい。

群れの計算

 個人主義とは利己主義ではない。自分が自分であることに立脚して、コミュニティのために尽力するのである。利己主義は、一見、コミュニティに従順であるが、その真意は、自分が損しないこと。うまくいけば、自分が縦社会の階段を着々上っていくことだ。もちろん、自分が縦社会の然るべき地位を占める暁には、ひそかに温めてきたリーダーシップを発揮するという考え方であろう。問題は、コミュニティが縦社会の理屈で成り立っているから、いざ、トップに辿り着いたとき、ユニークさを発揮できるのかどうかだ。なるほど社長は最高権力者である。ところが、自分の考えを打ち出すや、気がつけば、裸の王様、四面楚歌というケースが圧倒的に多い。がんじがらめで、「やりたいことがやれない」組織のトップがなんと多いことか。集団主義とは、個人主義を正しく理解した個人がリーダーシップを発揮できる。と考えれば、わが国は実は集団主義ではないらしいのである。


◆ 奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人