月刊ライフビジョン | 家元登場

支配の構造

奥井禮喜
9月政変は消去法

 自民党総裁選挙――4人立候補が固まった時点で順位をつければ、1,2がなくて、3,4を選ぶのも容易でない。これがわたしの率直な印象であった。わたしとは選択基準が異なるにしても、いずれの派閥も支持する候補を擁立できなかったから、本命も穴馬もいないレースであったことになる。ドイツでは16年首相にあるメルケル氏が引退するが、大方の論評は引退を惜しむ。安倍氏が8年間務めた首相を突然放り出した。引退を惜しむ声は聞かなかった。安倍政治を引き継いだ菅氏が、安倍氏の操り師であったか、番頭であったかはともかく、仕事ぶりに対するブーイングが大きく、しかも自民党内若手の批判が引導を渡したとみられる。若手が、派閥にかかわらず自主投票をさせよと立ち上がった。すんなり認められたので、巷間、若手の意気地よりも派閥の力量低下が話題になった。若手も候補者を擁立したのではないから、やはり意中の玉がいなかったことになる。

長老の老化が進む

 若手というのは、自民党の場合、生まれてからの年齢ではなく、当選3回以下をいう。プロ集団であるから、何度選挙戦を生き抜いてきたかが尊重される。若手に対する長老という言葉がある。長老は当選回数が群を抜いて多く、選挙区のみならず全国的に顔が売れている。当然ながら勤め人社会でいうなら定年後に幅を利かせる人が多い。今回の自民党総裁選挙では中心的話題ではなかったが、自民党が長老支配を脱して、清新溌剌とした政党をめざす動きがあるか、という注目点もあった。というのは、蚊帳の外から見ていると、長老たちがあまりパッとしない。ごそごそ動いているのはわかるが、「この人ならば」というアピール力がない。昔、派閥を率いていた諸氏ならば、すわ政変という場合に、床の間に鎮座ましますなんてことはなく、電光石火の行動を起こした。長老たる存在が本当に力を持っているのか。その力は何なのか、という疑問が持ち上がった。

名ばかり長老支配の弊 

 自民党は、人材豊富が売りである。なるほど、議会で多数を占めているのだから数はある。しかし、政変において目立つ人がいないのは、人材豊富ではない。実際、安倍政治の8年間には、こんな人が多数回当選を重ねてきたのかと言いたくなる人が、大臣に就任して、早いのは就任インタビューからドジを踏む。さらに、政治利権がらみで汚職が発覚して失脚する人が多かった。こうなると当選回数が多いのは、政治を利権にして商売していたようなもので、政治的には所詮陣笠、陣笠が大臣になれば伴食大臣である。利権商売が繁盛するのもそれなりに忙しかろう。日々、政治のお勉強に勤しむ時間が奪われる。派閥の利点は、政治力(見識・行動)を磨くことであり、自民党への人材補給・充足の回路だったはずだが、どうも効果的に機能していないらしい。名ばかり長老が増えたのも、派閥の力量低下も、党勢衰弱を示唆している。自民党は人材枯渇に直面しているようだ。

再創業の時が来ている

 ところで、長老支配を脱するのは容易ではない。長老が存在すること自体が、第一に、人の新陳代謝の不具合を意味している。第二に、組織文化が沈滞しており、沈滞した組織文化が延々と継続していて、組織のなかの人々は、その習慣を日々継続している。組織文化を変えるのは至難の業である。組織文化の変革は、いわば創業と等しい。創業とは、発明であり発見である。創業しても必ず成功するとは限らない。すなわち失敗を許容できる余裕が必要だ。創業=新たに作ることと、作ったものを継続・保全する活動はまったく別物である。そして、自民党に限らないが、大方の組織が継続・保全に大方の力を投入する。再創業の必要性が認識されることは極めて稀である。だから、現状を分析するについては、つねに創業の精神を念頭に、いかなる状況変化のなかにあるか、身を切る覚悟でやらねばならない。長老支配の問題は、決して自民党の専売特許ではない。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人