月刊ライフビジョン | 家元登場

アフガニスタンの人々へ

奥井禮喜
報復が生んだもの

 アメリカ軍のアフガニスタン撤収は、8月30日23時59分、カブール国際空港を大型軍用輸送機C17が離陸した時点で終わった。軍隊撤収は軍事作戦の終了である。2001年9月11日のアルカイダによる同時テロ事件に対する報復で開始したアフガニスタンを舞台とする戦争の終了である。アルカイダはテロ集団であり、人々のなかに隠れている。テロリストが隠れているとしても、それはアフガニスタンの人々の意思とは別物である。アフガニスタンを人体にたとえれば、そこに巣くう患部を外科切除するという話だが、患部でない部分が巻き添えを食った。ブッシュ氏(子)が「21世紀の戦争だ」と吠えて空爆を開始し、さらにイラクへと戦端を拡大した当時のやりきれない感じが再び蘇った。報復が生んだものは、結局、殺戮と破壊の20年間であり、何よりもアフガニスタンの人々の被害を思えば、頭がくらくらして容易に考えがまとまらないほどだ。

多くは戦争被害者として

 アメリカがアフガニスタンを民主国家に育てられなかったという論調が目立つが、米軍はもともとアフガニスタンに民主主義の植樹のために馳せ参じたのではない。テロ集団を壊滅させるためであり、それも成功しなかった。はっきりしているのは、米兵も2,400人以上亡くなったが、現地の人々の死亡・負傷は厳密にはわからない。わが国でも、「戦争を忘れまい」として語り継ぐ活動が続けられている。銃後の人々の感懐は空爆に命からがら逃げまわったとか、空腹に耐えかねたというものが多く、軍国少年少女であったにしても、大方は被害者としての側面である。「わしらが始めた戦争だ」と語る人はほとんどいない。アフガニスタンの人々に思いを寄せれば、こちらは全面的に被害者である。日本人でさえやりきれない思いを抱いたのだから、アフガニスタンの人々の思いはどんなものであろうか。外電報道のコピーばかりのわが報道記事を読みながら、実にやりきれない。

続ける限り負けはない

 軍事力は軍事力との対抗関係において、有利不利がある。相手の軍事力を叩くには大きな軍事力を有する側が当然有利である。ましてテロ集団は正規軍ではない。正規軍はゲリラ戦には向かないとしても、世界最強の軍隊を敵に回してテロ集団には勝ち目はない。しかし、戦い続けるかぎり敗北はしない。テロ集団を駆逐して、次にアメリカに敵対したのがタリバンである。直接的には、アメリカが後押しする、民主政治をめざす政府軍との対立関係である。米軍は民主主義の国を作るために派遣されたのではないが、国作りを妨害するタリバンと敵対した。治安維持のために、政府は軍・警察体制を確立せねばならなかったが、もともと何もないところから出発するのだから思うようには進まない。潤沢な資金を供給してもそれを消化する能力が不足している。資金を消化すること自体が汚職体質の増大という、皮肉な国作りの事態を招いた。国作りの失敗の根は深い。

破壊から建設へ

 苦い話だが、直視せねばならない。軍事力では国を作られない。仮に政府軍がタリバンを凌駕したとしても、それは政府の力ではない。武闘集団の力関係に過ぎない。政府の力とは、アフガニスタンの人々が国作りに立つことだ。もちろん、まったく成果がなかったのではなく、遅々としていても前進していた。しかし、人々の力が国作りに結集する事態までは届かなかった。民主主義の国を作るというなら、国というコミュニティは個人力の総和だから、「国家の価値は個人の価値によって決まる」という思考が立ち上がっていなければならない。毛沢東も権力奪取に成功したが国作りを失敗した。軍事の才能と「国作り=人々の生活基盤確立」の才能はまったく異なる。極論すれば「破壊と建設」は対立概念だ。こんどはタリバンが建設者としての才能を組織的に持っているかどうかが問われる。人々を共感させる力があるか否かである。未来は、アフガニスタンの人々に期待するしかない。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人