月刊ライフビジョン | メディア批評

自由、民主の政治はどこに行ったの?

高井潔司

 いわゆる桜問題で、東京地検特捜部は安倍前首相の公設秘書を政治資金規正法違反で略式起訴とし、前首相自身は嫌疑不十分で不起訴とした。これは私が先月号で「事案はあくまで秘書の独断による政治資金収支報告書の記載漏れという軽微な不正であり、前首相には刑事責任及ばずという幕引きのシナリオが描かれている」と書いた通りの展開となった。

 ネット上には、菅首相と前首相の確執説とか、検察の逆襲で前首相の逮捕、起訴の可能性もと、ゴシップ週刊誌なみの興味本位の文章を書く評論家もいたが、新聞やテレビの報道の流れを見ていれば、検察のリークによるメディア操作とシナリオが明々白々だった。マスコミの報道は(地検)関係者の話を引用し判を押したように、なぜ前首相の刑事責任を問えないかの解説ばかり。もう少し、視点を広げて報道したら少しは違う展開になったかもしれないのに残念だ。

 評論家の江川紹子さんは、毎日新聞のインタビューに、「午後4時の(東京地検)次席検事の定例記者会見が2時に前倒しされて略式起訴が発表されましたが、その理由は明かされず、質問にも『裁判所が判断する前に明らかにできない』と答えないことも多かった。東京簡裁が略式命令を出すと配川秘書はすぐに罰金を納付し、直後に安倍さんの記者クラブだけを対象にした記者会見が開かれたわけです。組織を超えた見事なスケジューリングに見えますね」と皮肉を込めたコメントをしていた。いかに仕組まれたシナリオに沿って幕引きされたか、言い当てている。 

 そもそもこの問題は、国税を使って開かれた桜を見る会に、800人もの地元後援会を招待するという政治倫理にもとる有権者への供応と政治の私物化の問題であって、収支報告書の不記載といった刑事案件はごくその一部に過ぎなかった。しかし、検察のリークに沿って展開された報道合戦は、刑事責任の有無ばかりに焦点が当てられてしまい、刑事責任がないのだから、私には責任ありませんという論法で逃げを許してしまった。何度も反省という言葉を繰り返しながらも、「9回の選挙、圧倒的な勝利。そんな利益を供与して票を集めようなんてつゆほども考えていない」なんてちゃっかり開き直り発言もはさんでいる。

 刑事責任が問えずとも政治責任は取ってももらわねばならない。が、相変わらず「責任を痛感する」といいながら、言葉だけでどういう責任を取るのか明らかにしたことはない。憲政史上、これほど政治不信を振り撒いて来た政治家は稀であろう。

 11月24日に開かれた日中外相会談後の共同記者会見で、中国の王毅外相が「一部の真相が分かっていない日本の漁船が絶えることなく釣魚島(尖閣諸島魚釣島)の周辺水域に入っている事態が発生している。中国側としてはやむを得ず非常的な反応をしなければならない。われわれの立場は明確で、引き続き自国の主権を守っていく。敏感な水域における事態を複雑化させる行動を(日本側は)避けるべきだ」と述べたのに対し、茂木外相が何の反論もしなかったことに自民党内からも批判が出ていると、各紙が報道し、ネット上でも茂木外相への不満が沸騰したそうだ。

 しかし、茂木外相に限らず与党の政治家さんたちは、官僚や秘書の作った答弁書やメモを読んでいるだけだ。そこには何の政治信念も感じ取れない。記者会見の場で、即座に反論なんていう芸当ができるはずがない。それこそ失言するのが関の山だ。

 その上で、悪事、失敗は、全部役人や秘書がやったことで、責任は私にはないとうのだから始末に負えない。

 世襲政治家とその取り巻きで政権ができているから、彼らは既得権益であるポストを分け合い、その維持だけを図ろうとする。政権内部の談合と策謀、世論の動向だけが気がかりで、政治信条も政治倫理もあったものではない。

 私は目下、戦前の中国報道、中国論を検証する研究を細々とやっているが、その関連で最近読んだ石橋湛山の『湛山回想』(岩波文庫)の中で、明治以来の日本の政治を批判するくだりが印象に残った。

 石橋は明治元年の五カ条の誓文で日本は「民主主義政治の形体を採用することを明確にした」という。その上で、「以来八十年、日本の民主政治は十分の成功を収め得ず、ついに今日の事態に立ち入った」と嘆く。

 その主たる原因について、「日本の政治家ことに政党政治家が、政治の目的を政権の争奪に置き、これが為には手段を選ばず、過烈の政争を繰り返したことが、日本の民主化を致命的に妨げた原因であった。彼らの心構えは根本的に民主的でなかった」「もし日本の政党政治家があくまでその初一念を貫ぬき、藩閥打倒に努力してくれたら、たとい彼らの動機はどこにあったにしても、日本の民主政治は、この間に必然大いに発達する機会を得たであろうと思う。しかるに不幸にして彼らは藩閥打倒の初一念を捨てた。のみならず藩閥と妥協結託して、政権に近づく方法を発明した」と指摘している。

 なお、同書の出版は昭和26年なので、「明治元年以来80年」となっている。「今日の事態」とは、大正デモクラシーの下、かりそめの政党政治が政争に明け暮れ、結果、軍部ファシズムに全権を譲り、敗戦、戦後の混乱を招いたことを指している。同書を読んで、政権の座に就くこと、一旦獲得した大臣、議員のポストを守る事に汲々としている現在の日本の政治を思い浮かべた。こんな政治に、民主の夢を託して、散っていった若者たちの運動は悲劇としか言いようがない。


 高井潔司 メディアウォッチャー

 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。