月刊ライフビジョン | 家元登場

私家版・文章の作り方

奥井禮喜
書けない時は無理しない

 いくつになっても「よっしゃ」と快哉を叫ぶ文章は書けない。誰に読んでもらいたいのか想定して書けというが、これは無理な注文だ。ある程度読み手層を前提するだけでも容易ではない。それで結局は書きたいことを書くだけなのだが、書きたいことを書いたはずが、書かれていないという次第でもある。書けないときは無理して書かないことも大事であるが、意外にもまったく書けない気分にもならないので、結局あれやこれや書いてしまう。わたしの場合、小説のような創作ではない。つねづね考えていることを書くのだから、純粋な意味で書けないことはないわけだ。30年くらい前は、書いたものを読み返すことがなかった。書いたら書きっぱなし。しかも記憶力がよろしくないから、たまたま昔の文章を読んで、妙に新鮮な心地がする。そんな場合は上等であって、ドジしてはいないか心配である。誤植など見つけると顔が赤くなる。恥をかく――の典型である。

豊穣の文士・開高健

 書いてから、① 2回以上読み返し、② 省く、③ 鋭くする、④ 字面を埋めるために文章を伸ばさない。これは推敲上の心構えである。いまは、原稿用紙に書かず、キーボードをつつくのがほとんどである。①は、以前は皆無だったが、最近は2回以上何度でもやる。②③④は、20代で雑誌の編集に関わっていたころからの心得であって、自分では十分にやっていたつもりだ。しかし、40代半ばごろ、超ベテラン編集者の手にかかって、なかなか合意に至らず苦心した体験がある。その際感じたのは、ボキャブラリーが貧弱だということで、それから読書熱が昂進したらしい。ただし、たくさん読んだから直にボキャブラリー豊富になるわけもなく、これは、生涯の課題である。たまたま手にした開高健さん(1930~1989)の文章と言葉の豊穣さに目がくらんだ。どんな勉強をしておられるのか? いまだに「そうだったのか」と膝を打つことができない。

形容詞に頼らない

 形容詞に頼らない文章を書くのも自戒してている1つの重要事項である。これは他人の原稿を読んでいると極めてよく理解できる。プロの書き手が書いている新聞を読んでも形容詞が多い。政治家の発言などは、形容詞を削除したら何も残らない類が多い。30代の初めに、法律を学んだ友人から「刑法を読んでみなさい」とアドバイスをもらった。なるほど、言葉を厳選し、ロジックを大事にしなければいかんということが薄々理解できた。法律の文章は確かに硬いのだが、ものごとの「理」が生命だから、慣れてくると硬いけれどもわかりやすい。もちろん、判例など読むとわかりにくいのもある。それは、法律的名文ではない。逆にいうと、「理」の展開に無理があるのだろう。――もっとも、これは法律的素人の解釈だから当を得ているかどうかは自信がない。いずれにしても政治家の発言の修飾語を削ると中身がないのは、間違いなく中身がないのである。

書く訓練を怠らない

 文書もまた修練である。どこかの「文章読本」や、「作家への道」のマニュアル本を読んで知識が増えても、達意の文章が書けるとは限らない。書けないときに無理して書かないのも大切だが、書く訓練を忘れないことも大事だ。書く訓練は、文のジャンルを問わず怠ってはならない。さらに、何よりも、テーマや題材を掘り下げることが大事だ。畢竟、自分の頭で考えるべし。下手な考え休むに似たりという皮肉もあるが、考える修練を忘れてはいかん。文章が書けないのは、思索が書くべき段階に到達していないのだ。言葉を通して思索するように、文章を通して思索が深まるはずだ。開高さんは魯迅さん(1881~1936)の文章について、――澄んで、生き生きとして、簡潔で、平俗だけれど鋭さと痛烈のあるユーモアを忘れない態度が、文章とその背後にあるものだ――と評した。まあ、わたしも書いているうちに、いつかは書きたいものが書けるに違いない。志を失わずだ。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人