月刊ライフビジョン | 家元登場

やっと 明治を終わらせる

奥井禮喜

わたしの人生はわたしのもの

 民主主義は、もともと専制・独裁政治に対する抵抗から生まれた。わたしの自由を認めよというのであって、精神的水脈の源流を辿れば、リベラリズム(自由主義)である。リベラリズムは、反国家・反統制的な思想原理である。平たく言えば、わたしの人生はわたしのものだという人権意識であり、わたしが国家を作っているのだから、納得できない(国家)権力の行使は許さないという思想である。わが国においては、鎌倉開幕から明治維新を経て敗戦までの760年間、リベラリズムが十分な成長を遂げられなかった。明治は封建社会ではなかったが、典型的な国家主義であり、個人の自由主義とは対立していた。人民が存在せず、臣民しか存在しなかったから、封建時代とは異なるが、相変わらず専制的・独裁政治であった。敗戦で民主主義政治になったが、人々が自分たちの意志と力で民主主義にしたのではない。「なった」と「した」のでは天地の隔たりがある。

権力は人民に由来する

 民主主義democracyの語源は、ギリシャ語のdemokratiaでdemos(人民)とkratia(権力)の合成語だということはよく知られている。すなわち権力は人民に由来し、人民が行使するという思想である。人民とは、人々1人ひとりである。自分のものなんだから、自分が行使する。その源流がリベラリズム(自由主義)である。リベラリズムは人間の尊厳(Human right)を不可欠の原理とする。差別がいけないのは人間の尊厳を冒すからである。アメリカで「Black Lives Matter」の運動が高揚している。以前は、黒人の公民権(Civil right)が焦点だったが、いまは、人間の尊厳が強く主張されている。市民権よりも根源的な人間としての権利を認めよという。人間としての権利が認められなければ市民権など単なる形式に過ぎない。運動がよりラジカル(根源的)になった。21世紀のアメリカ社会が病膏肓に入るというわけだ。極めて深刻である。

権力とは柔らかい刀である

 しかし、アメリカは重病だと高みの見物をしている場合ではない。中国の明朝末期から清朝初期に木皮道人という悲憤慷慨の人物がいた。彼は、「幾年も柔らかい刀で頭を切られていると死に気づかない」と書き残した。これは魯迅(1881~1936)『墳』(1926)に書かれているのを引用した。魯迅が生きた時代の中国は柔らかい刀ではない、政治的発言や行動をするとバッサリやられた。にもかかわらず、大方の人々は、さしたる痛痒を感じていなかったので、魯迅は木皮道人を引っぱり出した。ところで、いまの日本はどうだろうか。なるほど、少なからぬ人々が、たとえば新聞の「香港の民主主義が危機だ」という論調を読んで心を痛めている。その割には、わが国内の「民主主義の危機」について、格別の問題意識が高まらない。永年にわたって柔らかい刀で頭を切られてきたことに気づいていないのではあるまいか。気がつけば後の祭りにしたくない。

気付かぬうちに殺されて

 自由と民主を看板にしているが、自民党議員の大方は国家主義者である。たとえば、基本的人権という言葉を語る連中は左翼思想だと敵対する。自由と民主の党であれば基本的人権を語る人は最大の支持者であるにもかかわらず。あるいはリベラルも同様に左翼扱いして嫌う。前述のようにリベラルこそが自由と民主主義を作ってきた思想であるにもかかわらず。つまり、いまの自由民主党は国家主義政党であって本腰入れて民主主義社会を構築する気配がない。「みなさまのために粉骨砕身努力します」という、それは、「国(=自民党)がやろうとすることに黙ってついてくれば悪いようにはしない」という本音が隠されている。野党が政府与党のスキャンダルばかり追及するという声があるが、火元は政府与党であり、堂々とルール破りしていることを忘れている。柔らかい刀は権力の最大の武器である。これを無視していると「個人の尊厳」は山の彼方へ去ってしまう。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人