月刊ライフビジョン | メディア批評

科学的、合理的システムを備えた総力戦体制を

高井潔司

 まず先月の「読売客員研究員にとって執筆に『不都合な肩書』」の続報。

 先月号では、読売新聞の元論説委員長で、現国家公安委員である小田尚氏が「客員研究員」の肩書で、読売紙上に書いた「法務・検察の不都合な真実」と題するコラムについて批評した。小田氏は、賭け麻雀事件で辞任した黒川東京高検検事長について、彼の定年延長や次期検事総長の内定は稲田検事総長が指示したことであって、安倍首相は「私は、むしろ林さん(黒川氏辞任を受け検事総長に内定)と親しい。黒川さんはよく知らないんだ」とまで語らせた。私のコラムでは、国家公安委員の肩書を隠し、「真実」と称して、根拠の弱い不確かな情報を流し、安倍政権を擁護するコラムだと批判した。

 先月号のこの「メディア批評」は、メディア研究仲間のM氏からのメールをヒントに書いたものだが、M氏はその後も、小田国家公安委員のいう「不都合の真実」がいかにフェイク(虚偽)情報であったかを新聞紙を丹念に読んで割り出した。それは稲田検事総長の退任会見を報じた7月18日付の朝日、毎日、読売の記事比較でわかった。この日、各紙とも林検事総長の就任がメインのニュースであり、稲田氏の退任会見はその関連で小さく報じられた。私などは全く見落としていたが、M氏はしっかり読んでいた。読売は稲田氏が「政治と検察の関係については一定の距離を保つことが必要で、公正さが疑われないようにしなければならないと述べた」と報じ、毎日も「検察が新検事総長の下で一丸となり、国民が寄せる期待に応えてくれると確信している」と、当たり障りのない内容となっている。しかし、朝日は「黒川氏の定年延長について『答えは差し控えるが私自身が決定したことではない』と述べた」点を、しっかり読み取っていた。当事者の稲田氏の発言は小田国家公安委員のコラムが伝えた情報を全否定するものだ。この発言は小田コラムがフェイク情報に基づくものだったことを明確に示している。M氏は小さな扱いの記事を比較しながら「真実」を紡ぎ出した。読売や毎日の記事にはそうした「真実」探求の問題意識が見られない。

  • 総力戦体制はいまなお継続している

 私は定年後、おそらく人生最後となる研究として「大正デモクラシー期の中国論の命運」(新聞通信協会発行『メディア展望』に連載中)に取り組んでいる。北海道大学を退職後、思いがけず再就職することになった桜美林大学の創設者が、大正時代、北京で宣教師のかたわら新聞や雑誌で発表した中国論が極めてユニークで進歩的な内容であったことに感銘し、同時期の大阪朝日新聞や吉野作造らの同時代の中国論と比較しながら論じてきた。日本の中国侵略を戒めた彼らの中国論はその後の満州事変を受けて、一部を除いて変節し、戦争を煽るメディアにさえなってていった。軍部の総動員体制の中に呑み込まれてしまったのだ。なぜ、どのように変容していったのかが、私の目下の関心事である。

 その流れで、大学時代の恩師がその遺作として『総力戦体制』(山之内靖、ちくま学芸文庫、2015年)を残し、恩師の共同研究者から贈呈を受けていたことを思い起こし、ひもといてみた。わが恩師は近代欧州経済史研究の権威、大塚久雄の弟子で、私の在学中、彼も近代欧州経済史を講義していた。近代欧州経済史の流れとして、市民革命や民主主義発展の基礎となる自立した「市民」、「個人」の確立の過程やその意義についてみっちり薫陶を受けた。 

 久方ぶりに読んだ恩師の作品に、私は大きな衝撃を受けた。というのは、恩師が以前、一つの「理想論」として説いていた「市民社会論」を痛烈に批判し、ロシアや中国はもちろん、戦後の日本やアメリカにおいても戦前の「総力戦体制」が継続、展開しているとの議論を繰り広げていたのだ。1980年代、彼の研究に大転換が起きていたようだ。その転換は私のメディア論研究にも大きな見直しを迫る内容だった。いや私がうすうす「市民社会」論では説明しきれないと感じていた問題を正面から捉え直していたと言えるかもしれない。

 わが恩師の研究は昔から、その主張の展開にあたって、数多くの文献をち密に吟味し、分析する手法を取る。難解な哲学者の理論を批判的に論じていく。相当の前知識がないとついて行けず、今回の『総力戦体制』も私自身、十分理解したとは言い難い。それに彼の文脈に沿って、議論を正確に紹介するにはかなりの紙幅を必要とするので、ここでは私の理解した範囲内で、しかも本欄の「メディア批評」に関連して紹介していきたい。まず彼の言う「総力戦体制」とは何かを要約しよう。

 第1次世界大戦以降、「戦争は前線においてというよりも、一国全体のあらゆる資源――経済的、物質的資源のみならず、知的能力・判断力・管理能力・戦闘意欲を備えた人的資源、さらには、そうした人的資源を情報操作によって制御し得る宣伝能力という新たな資源――を動員しうる官庁組織によって、遂行され得るものとなった」。「国民とは、政治に参与する権利と義務をもった者たちの呼び名ではなくなり、死に向かう運命共同体に属する者たち、死を肯定するに足る情念を共有する者たちの呼び名となった」、「国民という名称は、こうして、敵国および敵国に属するあらゆる人びとから区別され、彼らとは絶対に相いれることのない文化的価値を共有する者、戦争において死の運命を共有する者、という意味を帯びるようになる」。そこでは階級や身分といった差別は「死の運命的平等性を前提とする国民主義的イデオロギーによって」解消される。「一九世紀型の階級対立は、教育改革・職業訓練・職業紹介・医療保険・年金といった制度改革によって、あるいは労働者・農民・中小企業者・女性の保護によって、精度化されたコンフリクトへと体制内化されなければならない。本格的な福祉政策は、こうして、総力戦とともに始まった」。

 ここまでは従来の総力戦体制、総動員体制論と変わらない。彼のユニークな視点はこの体制は現在もなお継続し、世界情勢を動かしているという指摘である。

 「現在、冷戦の終結、企業活動のグローバル化、情報のデジタル化、労働力の国境を超えた移動をとおして、国民国家の枠組みはゆらぎ、大きく変容しつつある。この事態は、国家的諸規制――その多くは総力戦時代に構築された――の緩和・撤廃を伴うが故に、一見すると総動員の解除それによる自由主義への復帰を意味しているかに受け取られる。しかし、総力戦時代に達成されたシステム化は、もはや逆戻り不可能な社会的統合を実現している。現在の動向は、システム社会が国民国家的統合を基盤としつつ、それを超えてグローバルな統合に向かい始めたことを物語っている。この世界システム的統合のなかから、あらたなエリート支配の構造が立ち上がってくる」。

 彼によれば、日本の戦後復興は決して全面的な市場経済の推進によってなされたのではなく、「行政指導」という形を変えた総力戦によってなされた。私がかつて所属した新聞業界などは、戦時中の統廃合の結果をそのまま維持し、巨大化していった。戦後生まれたテレビ業界はその新聞業界によって牛耳られている。産業としてのメディアだけでなく、ジャーナリズムさえも総力戦体制の下に置かれていると見ることもできよう。

 トランプ政権の登場は、グローバル化への挑戦というよりも、「アメリカファースト」の掛け声の下に、総力戦体制を露わにしている。イギリスのEUからの離脱をはじめ、難民問題を機に欧州各国でも自国中心の体制へと復帰しつつある。総力戦体制は、他国の脅威をことさら煽り、強権、独裁体制を正当化する一方、大衆に迎合するポピュリズムをも生み出し、劇場型政治をも演出する。

 恩師の理論によれば、「市民社会」論は一つの理想型であって、市民革命と民主主義形成の時代、現実には市民から排除された労働者、大衆が存在した。エリート民主主義だった。しかし、民主化、経済の発展が進行すると、「市民社会」は大衆をも体制に組み込み、「大衆社会」へと必然的に変質していく。近代「市民社会」は、現代「大衆社会」の形成を当初から内包していた。

 本題であるメディア論で言うと、民主主義社会を支えるメディア――それは私が理想として、メディア批評の前提にしてきた――は、「生活者の域をこえ、自らの利害に直接関わる問題や争点だけでなく、より広範な問題や争点に対しても関心を持つ人々」、すなわち「市民」を前提にしている。そして、市民は「それらの問題や争点に関する情報を収集し、他の人々との理性的な討議を通して意見を抱き、それを様々な場で表明し、世論形成の担い手」として想定されている(大石裕編著『戦後日本のメディアと市民意識』ミネルヴァ書房)。

 自立した市民による「民主主義社会」論だ。だが、「大衆社会」の現実は、マスメディアや検索型のネットメディアを通して耳に入りやすい限られた情報によって、感情的に評価し、行動しがちである。メディアの現状分析においても、総力戦体制論の観点は有効といえよう。マスメディアは大衆に受け入れられやすいステレオタイプな情報を提供し、政府はその弱点をつかんで国民を統合するための情報戦略、宣伝戦略を展開する。

  • 米中対立煽る危険なポンペオ発言

 11月の米大統領選に向けて、苦境に立つトランプ政権が危険な挙に出る気配を見せている。7月23日、カリフォルニアのニクソン図書館で演説したポンペオ国務長官が、「中国が自由と民主主義に向けて進化するとした」歴代米政権の対中政策に疑問を呈し、長年維持してきた対中政策を見直し、有志の民主主義国による新たな連帯を図る時だと、「対中包囲網」の結成を呼びかけた。この発言を実践するかのように、アメリカは中国の在ヒューストン総領事館の閉鎖を命じ、逆に中国は対抗措置としてアメリカの在成都総領事館の閉鎖を要求した。大統領選が近づくにつれ、挽回策のないトランプ政権がさらに対中対決をエスカレートさせる恐れは十分にある。

 その情勢下、ポンペオ発言は、文字通り受け取ると、ビッグニュースであるが、意外に朝日も読売も冷静で、一面トップではなく、準トップ扱いである。選挙戦をにらんだ発言であり、またトランプ政権が下野すれば米中関係の将来もまた異なる構図が描かれるだろうという意図が背景にあるようだ。ただし、両紙とも2面、3面の解説記事は、ポンペオ言を批判的に捉えるのではなく、トランプ政権の意図と背景を肯定的に紹介している。例えば読売の場合、米中の対立点を、新型ウィルス、香港、南シナ海など項目ごとに図示し、「米、共産党体制に矛先」「『自由か圧政か』よびかけ」とポンペオ発言の解説が主たる内容になっている。確かに中国の政権が圧政であることに疑いない。しかし、アメリカがいまや中国を批判できる自由や民主を代表する政権であるかどうか、大いに疑問が残る。人種差別反対の運動を、中国同様、実力行使で押さえつける政権が民主的とは言えない。

 香港の民主化運動の制圧や南シナ海での中国の強硬な動きが連日報じられる中、ポンペオ発言をまともに捉えていたら、日本の政権も世論も容易に「対中包囲網」に取り込まれてしまいかねない。香港の民主化運動がこのような危険なトランプ政権を頼りにしているというのは、悲惨である。彼らの中国に抵抗する勇気は敬服に値するが、米英頼みでは、その求めている民主は幻想ではないかと思えてくる。

 わが恩師の「総力戦体制」論に沿えば、「自由か圧政か」という枠組み自体が意味をなさない。さらにいうと、「総力戦体制」論は、習近平政権、トランプ政権だけでなく、実はプーチン政権の動向を分析する上でも極めて有効であり、プーチン問題は今日の国際問題を考える上で決定的に重要な問題であるが、それはまた別の機会に取り上げたい。

  • 「総力戦体制」論で未来は開けるのか

 さて、「総力戦体制」論は現状分析に有用であるとして、私にも疑問が残る。それはこの理論が様々な体制や事案について、相対化し、現状肯定につながりかねない点だ。中国も圧政だが、アメリカだって圧政だと言うだけでは、結局中国の圧政を認めることになる。

 そこで私なりに考え着いたことは、「総力戦体制」と言っても、誰のための「総力戦」なのかという問題意識を持つことの重要性だ。民主化の徹底が大衆化であり、総力戦としたら、本当に民主的な「総力」体制かどうか。総書記や大統領個人のための「総力戦体制」は「個人独裁」となる。共産党の延命のためなら「一党独裁」ということになろう。

 一方、「民主」を支持するにしても、北朝鮮も「朝鮮民主主義人民共和国」が国名であり、中国も国家目標の重要な柱の一つに「民主」を掲げている。わが国の主要政党は「自由民主党」、「国民民主党」、「立憲民主党」と、いずれも民主を掲げている。総力戦体制下、いずれのサイドも「民主」を掲げている。ポピュリズムである。しかし、その中身はそれぞれ違っている。だとすれば、民主を名乗っていても、あるいは「自由主義陣営」に属するといっても、本当に民主なのか、自由主義なのか、その実態を点検する必要がある。

  • 総力戦損なう政治家の恣意、官僚の忖度、マスコミの追従

 新型コロナウィルス対策について、世界的な拡大の初期段階、感染を蔓延化させた独裁体制と感染を抑え込んだ台湾の民主体制という構図が日本のメディアで大きく取り上げられた。私も当初、そう見ていたが、その後の推移を見ると、中国はウィルスに対して科学的なシステム、管理体制によって総力戦を展開して制圧にひとまず成功した。台湾も民主体制というより、マスクの供給管理など科学的なシステムとその管理の遂行が功を奏したといわれる。独裁か民主かの構図ではなく、いかに科学的なシステムが機能したかどうかの問題とも言えよう。「コロナは風邪程度」と政治家の恣意的な言動によって総力戦体制が築けなかったアメリカやブラジルは完全に感染抑止のタイミングを逃し、感染を蔓延させてしまった。科学的なシステム、合理的な管理からなる総力戦体制を妨げるのは、政治家の恣意、官僚の忖度、マスコミ、知識人、科学者の追従である。

 総力戦体制をどう評価するか、やはり多様な視点、立場からの情報を収集し、理性的な討議を通して輿論を形成し権力をチェックするという古典的なジャーナリズムの立場はいまなお有効だ。だが、報道の自由という制度の下にあるから、ジャーナリズムの機能をはたしていると安心せず、報道の自由を駆使して「真実」を探求してこそ、「民主」が維持できるのだということを肝に銘じておく必要があろう。とりわけ、「総力戦体制」の下、権力者は、多様なメディアを利用しフェイク情報をまき散らし、情報操作を繰り広げる。情報の「受け手」としては、情報はうのみにせず、まず半信半疑の姿勢で確認作業をすることが大切だ。その意味では総力戦体制の中に、体制を常に客観的に、中立的に監視、評価するシステムが必要と言えるだろう。

 冒頭取り上げた国家公安委員のコラムの問題に戻ると、市民社会論では国家権力から独立し、権力を監視すべき新聞メディアから、政権はその幹部を国家公安委員に迎え入れた。先月号で解説したように、こうした政府の機構に中立的な委員として参加させることで、多様な意見を行政に反映させる民主的な制度でもあるが、総力戦体制でもある。だが、残念ながら国家公安委員氏は安倍政権を擁護するために、新聞紙上を利用し、その肩書を隠し、新聞社の客員研究委員の肩書で、さも内部情報に通じているかのように装い、フェイク情報を書いた。残念ながら、これは権力者個人の延命策に奉仕するための追従行為であって、国民、大衆のための総力戦体制を損なったと批判することができよう。


高井潔司  メディアウォッチャー

 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。