月刊ライフビジョン | メディア批評

読売客員研究員にとって執筆に「不都合な肩書」

高井潔司

――メディアは権力の番犬か監視犬か――

 メディア批評を担当していながら、このところ新聞本紙は斜め読みが多い。デジタル版の方が充実しているし、一般ニュースもニュースサイトをチェックすれば十分で、気になれば本紙にあたる。読み応えのある記事にお目にかかることは滅多になくなった。そんな怠けぶりを見透かしたように、記者出身の研究仲間であるMさんから、時折り「こんな記事は読みましたか、感想を聞かせてほしい」とメールが入る。今月は読売新聞6月20日付解説面に掲載の「補助線 法務・検察の不都合な真実」という調査研究本部の小田尚客員研究員執筆のコラムだった。

 本日の読売朝刊紙面を見て、読売はここまで政府PR紙になったのか、と情けなくなり、貴兄の「思い」を聞いてみたく、このメールを打っています。…小生は小田氏と面識はありません。しかし、文中、安倍首相に「私は、むしろ林さんと親しい。黒川さんはよく知らないんだ」とまで語らせています。そして、全編、あたかも、検事長の定年延長問題は、法務・検察の「無法な横やり」によるもので、安倍政権は「無垢で、とばっちりを受けた」ように描いていますね。結びの「稲田氏ならではの指揮が必要らしい」には冷笑のニュアンスが込められていませんか。小生の読み方は偏っていますか。

 Mさんはフェイスブック上でしばしば新聞批評を披露している人だが、今回はよほど読売論調にあきれ返ったのか、アップ前に私の感想を求めてきたようだ。私はMさん同様、安倍首相周辺の思いを代弁するコラムに失望するとともに、筆者の名前と肩書が気になった。確か小田氏は論説委員長だったはず、いつから調査研究本部に飛ばされたのか、などと思いをめぐらした。そこで便利なインターネットで検索してみたら、彼は2018年1月に読売を退社、同時に日本記者クラブの理事長の任期を1年あまり残しながら辞任。3月に国家公安委員に就任したとある。飛ばされたどころか、全く失礼! ご栄達を遂げた人物だった。

 それならそうと肩書も「国家公安委員」と書いてくれれば、読者もこのコラムの主旨がよく呑み込めたかもしれない。「真実」はこうだと公安委員が書くのだったら、説得力を持つはずだ。

 ところが、「客員研究委員」のコラムは、情報源を「首相官邸関係者」とか「政府筋」とあいまい。論拠がとぼしくかつ一方的な首相サイドの主張を取り上げるのみで、首相周辺の代弁としか読みようがない。例えば、「検事総長の任命権は、内閣にある。具体的な人事は、検事総長が後継を指名し、法務省を通じて首相官邸に伝え、了承を得ることで決まる。官房副長官(事務)と法務次官が窓口を務め、首相らは関与しないのが、長年の慣行だ」と書く。確かにそうだろうし、書類上の形式も当然そうなる。だが、決定のプロセスで検察庁、法務省、官邸の間で調整、すり合わせがある。その上で慣行と形式にしたがって、書類が作成される。

 しかし、今回は慣行を守るどころか、法令の解釈を変更までして、黒川弘務東京高検検事長の定年延長を決め、同氏の事実上の検事総長内定の道を開いた異常な人事だった。さらに、コラムは「訓告処分」を含めすべて稲田現検事総長の自己都合とその判断でやったことにしている。もしそれが事実であったとして、それなら官邸はなぜそんな検事総長の勝手を許してしまったのか。こんな説得力のない原稿では、この後紹介するように、行政から中立を求められる「国家公安委員」の肩書で原稿を書くわけにはいかなかったのではないか。

 記者の倫理問題に詳しいMさんは、さらにこんなコメントをくれた。

 アメリカの主要メディアの記者倫理規定の最優先項目は「conflict of interest」の回避です。取材・報道の対象と記者との間に「利益の衝突」があってはならない、つまり、報道の公正さを担保するためには、書かれる側と書く側との間の「利害の存在」や「利益相反」に敏感でなければならない、と言う当然の倫理です。

 さらに、news source、つまり取材源は明示が原則で、明示できない場合は、理由を付記することになっています。

 問題の、国家公安委員が読売新聞の客員研究員の肩書で執筆掲載した政治原稿はその両方を踏みにじっています。

 そして、さらには、筆者と政界との密着の深さ(癒着度)を誇示しています。これでは、国境なき記者団が毎年発表している「報道の自由度世界ランキング」で、日本が常に66、67位に低迷している理由が理解できないわけです。

 客員研究員の名で執筆した国家公安委員のコラムは、記者の倫理の問題にとどまらない。そもそも彼らを起用する安倍首相の民主主義を踏みにじる体質から来ている根深い問題である。

 そもそも国家公安委員ってどんなポストか。これまたインターネットで検索してみたら、文部科学省のHPに行政委員会制度の概要として以下のような内容が書かれている。

 地方公共団体の執行機関としては、公選制による首長のほか、次のような趣旨 から、長から独立した地位・権限を有する委員会等が設置されている。(執行機関 多元主義)

1機関への権力の集中を排除し、行政運営の公正妥当を期する 1. それぞれの機関の目的に応じ、行政の中立的な運営を確保する(※) 2. 住民の直接参加による機関により行政の民主化を確保する

 ※ 中立的運営の確保の例

(1)政治的中立性を確保 :教育委員会、公安委員会、選挙管理委員会 (2)公平、公正な行政を確保 :人事委員会・公平委員会、監査委員 (3)利害関係の調整 :地方労働委員会、農業委員会 (4)審判手続等の慎重さを確保 :収用委員会、固定資産評価審査委員会

 また国家公安員会のHPにも「国家公安委員会は、国務大臣である委員長と5人の委員の計6人で構成される合議制の行政委員会です。この制度は、戦後新たに導入されたもので、国民の良識を代表する者が警察を管理することにより、警察行政の民主的管理と政治的中立性の確保を図ろうとするものです」とある。

 要するに、行政委員会制度は、戦前の総動員体制による軍国主義の暴走を反省し、教育や警察など行政の民主化、政治的中立を確保するために設けられたものだ。その住民、国民代表が行政の代弁者であったら、この制度は意味をなさない。

 黒川検事長の辞任問題では、その原因となった記者との賭け麻雀をめぐって、記者の行為は権力との癒着か密着かという問題が提示された。これはメディアにとって大きなジレンマであり、一刀両断で解答は出てこない。だが、このコラムの問題は、Mさんが指摘するように、メディアが権力を監視するウォッチドッグ(監視犬)なのか、権力を擁護する番犬なのかという問題であり、ジャーナリズムとしては当然ウォッチドッグに徹するというのが原則である。日本記者クラブのトップを務めた人物がこれではあまりにも情けない。ただし、繰り返すが、これは小田氏個人だけの問題ではない。自身の意向に従ってくれる人物を起用し、行政委員会制度を骨抜きにしてきたのは、安倍首相本人であるからだ。民主主義のチェックアンドバランスのシステムを壊し、一強体制を作るのが彼の政治手法である。

 安倍首相の手法の例を一つ紹介しよう。2018年度の優秀なテレビ番組に贈られるギャラクシー賞を受賞した毎日放送の「教育と愛国」という番組の中で、新しい歴史教科書の普及を促進する団体主催のシンポジウムでの安倍晋三氏の驚くべき発言が取り上げている。当時は民主党政権下で、安倍氏はかなり自由に、明確に発言している。

 番組の冒頭、安倍氏の「政治家が(教育に)タッチしてはいけないものか…そんなことはない。当たり前のことではないですか」という発言が取り上げられる。教育に政治を介入させないという戦後の民主主義の原則を否定する発言だ。「道徳」の授業を復活させるというのは、安倍氏が初めて衆議院選挙に出た時からの公約だったと述べ、それを実現したと自慢気に語る。そして番組は既存の歴史教科書が「自虐史観」として排除され始めている状況を伝える。その一方で、安倍氏は新しい歴史教科書の普及の進め方について、「首長が教育について強い信念を持っていればその信念に基づいて(教科書の選択採用を決める)教育委員を変えていけばいいんです。横浜で(新しい歴史教科書)採択されたのは、強い意志を以て一人一人教育委員を変えていったからなんですよ」と提言したことを紹介し、そうした手法によって各地で既存の歴史教科書を駆逐していった背景を説明している。(こうした良心的なドキュメンタリー番組は、普段毒にも薬にもならないバラエティ番組を垂れ流している民放が罪滅ぼし的に制作し、見る人の少ない深夜に放送している。その中から選ばれた受賞作は年1回「ベストテレビ」という番組名で、NHKで一挙に放送される。大変参考になるが、テレビ業界の“贖罪的番組”とも言えるだろう。なおこの番組は、書籍として編集され岩波書店から刊行されている)

 本来、中立的な立場を取る多様な学識経験者を配置すべき行政委員会に、自身の意向を体現する人物を送り込み、支配していく。先月号で紹介したように、内閣人事局に高級官僚の人事権を集め、公務員を自らの従業員に作り替え、文書の改ざん、隠滅のし放題の忖度政治を築いた。メディアでいえばNHKの会長ポスト、経営委員に息のかかった人物を送り込み、公共放送を歪めたのは、記憶に新しい。首相のお得意の表現でいうと、制度をないがしろにする行為を、この方は「躊躇なく」実行する。客員研究員の目には、それは合法的で、慣行にしたがっているのだ。形式的には問題はないが、制度や法令の趣旨から逸脱している。

 この手法は、中国共産党の独裁体制によく似ている。中国は、メディアという面では、日本より明確に報道の自由を規定した憲法を持っている。国会に当たる全国人民大会もあれば、労働組合もある。何しろ「中華人民共和国」ですから。憲法では民主的な社会主義国家を目ざすとも書いている。しかし、いずれも憲法の前文によって、国家の建設、運営は、「共産党の指導」の下に置かれ、全ての組織に共産党支部が設置される。要職は共産党員が握り、党中央の意向に沿って動く独裁体制を築いている。

 中国だけではない。ロシアも、いやアメリカさえも同様に、権力の集中が図られ、ボルトン前米大統領補佐官が暴露したように、国益、国民の利益より、個人の利益を優先する体制を志向している。香港で、政治的自由を求める一部の活動家が米国旗を掲げて中国に対する抵抗を呼びかけるシーンが見られたが、これほど皮肉な光景もないだろう。アメリカも権力に抵抗する者に対して、武力行使も辞さないという姿勢では一致している。トランプ大統領は香港の民主化運動を純粋に支持しているのではなく、中国とのパワーゲームでどう利用できるかだけを見ているのだ。

 もちろんだからと言って、香港の民主化運動に意味がないとか、中国の独裁体制がいいといっているわけではない。もはや紙幅を使い果たしたので、この問題は来月号で正面から取り上げたい。現代の国際関係の構図は、いまや民主対独裁というよりも、総力戦体制、総動員体制間の対立の構図となっていると言えるだろう。メディアにおいては真実を追い求める監視犬か、フェイク情報で体制の維持を図る番犬かの闘いの構図だ。


高井潔司  メディアウォッチャー

 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。