週刊RO通信

どうする労働組合

NO.1554

 大手組合の賃上げ交渉は閉幕だ。賃上げ率が高くはないが、なにしろ長年にわたって実質賃金が低下していたのだから、5%超えなら大幅に見える。ヒットは、正規社員の賃上げに先行してパートタイマーや非正規社員の賃上げを優先したケースで、連帯という言葉が見えなくなっている現状において、少し明るい気持ちになる。

 賃金交渉はベースアップが目的だから、少しでも高ければいいのよということだが、たまたまの数字のみに評価基準を合わせたのでは心もとない。賃金は、いかに政府・財界が賃上げを掲げても、実際に決定するのは個別の労使である。新聞は「高い賃上げを中小に広げよ」と主張するが、中小は、円安輸出でたくさん稼いでいる大企業のようにはいかない。

 かの高度経済成長時代(1950年代半ば~1970年代半ば)には、日本経済の二重構造問題として、中小企業の体質強化が叫ばれたが、さっこん、そのような声もか細い。働く人の70%は中小企業である。政財界が賃上げを大声疾呼しても、神主の祝詞以上の効能はない。正直なところ、中小企業労使の「たまらんなあ」というつぶやきが聞こえる。

 「労使共闘」の賃上げだという形容詞も登場したが、このような言葉に飛びつく新聞のセンスはほめられない。その中身をちょいと考えれば、儲けてため込んでいた大企業が世間体(?)をおもんばかったのにすぎない。いや、もっと深刻なのは、利潤をため込んでも、しかるべき投資ができずにいたのでもある。まるで江戸時代の豪商と同程度である。

 その間に、経済大国の看板はどこかへ消えた。アニメと特撮で米アカデミー賞を獲得し、「日本の底力示したダブル受賞」(読売3/11社説)と書かれると、芸術家のハイセンス作品が、なにやら負け惜しみ風に転用されたみたいに聞こえてしまう。政財界こそ、日本経済をきっちり牽引して、底力をみせてもらいたい。

 閑話休題。本題は、労働組合の主体性についてみなさまに提唱したい。

 労働組合は、働く人の組織である。組合では、話し合って要求をつくり、その獲得に向かって運動を起こす。だから、数は力である。1人より2人、2人より3人、数が集まるほど大きな力になる。ただし、組合力とは各人の知恵と力の総和である。こんなことは誰でも知っている。知っているが、おおかたの組合においては本気で考えられていない。

 働く人の大多数は沈黙を守っている。お天気について10万回会話しても組合力にはならない。要求化するべき大事なことについて発言する人は極めて少ない。不信の沈黙である。今年の賃上げ要求が組合員の切実な熱い意見の結集であれば、労使共闘のような不細工な言葉の出る幕はない。意見を出した組合員は失礼千万だと怒るにちがいない。

 春闘活発な時代は遠くなったが、当時の組合員はおおいにしゃべった。仕事の苦心・苦労、暮らし向きの不都合など。賃上げ時期ともなれば組合員の口にフタをしたくても不可能である。まさに、粗にして野だが、卑ではないのであって、賃上げのための会合はまことに賑やかであった。

 不思議にも、組合活動が活発だった時代、企業活動もまた活発だった。なぜか。少しおおきく眺めると、組合活動は人間が成長する空間であった。人間は環境とともにある。人間は環境の生き物である。人間が、環境を変革する行動を通じて、はじめて自分自身の本性(個性)を作る。個人が変化する時代は、その個人が属する組織も必然的に変化するからである。

 賃上げは、もちろん賃金を上げるためであるが、それは金銭の価値に憧れてのことではない。組合員が、自分の生活の価値を知っているから、そこに足をつけて、必要な賃金を要求するのである。それを根本から考えると、各人が自分にとってのグッドライフ=人生の価値序列をしっかり踏まえている。はじめに仕事ありきではない。はじめに生活ありきである。

 あえて、不信の沈黙という言葉を使った。組合執行部のみなさんが、なにかと苦労していることは知っているつもりだが、苦労の本丸を組合員の発言を引き出すことに向けてほしい。組合のヘッドは組合員である。国民というヘッドを忘れた政治が大混乱しているのは、決して他人事ではないのだから。