週刊RO通信

人間不幸の根源

NO.1559

 パスカル(1623~1662)の『パンセ』を読む。パンセは仏語で思想・思考の意味である。この本は思索・思考の断片の寄せ集めであるが、中身はとても深い。デカルト(1596~1650)は、これ以上は疑いえぬところまで疑った後、明晰・判明に記述せよと主張した。いずれもフランス哲学の神髄をみる気がする。今回は、パスカルの気晴らし論を紹介する。

 ――人間の不幸というものは、1つの部屋の中に、じっと、静かにとどまっていられないという、ただそれだけのことから起こっている。生活に困らない人が自分の家にじっととどまっていて、それで楽しかったら、なにも家を離れて航海に出かけたり、要塞の攻略に加わったりしないであろう。動かずにいるのが耐えられないからこそ、高いおカネを出して軍人の地位を買ったりするのだ。――

 なぜそうなのかというと、――人間の条件という、生まれながらにどうしようもない不幸の中にある。人間は悲惨であわれなものだ。――つまり、その不幸や悲惨とは、退屈することである。神は人間を楽園から放逐して、働かなければ食べられない罰を与えたのだが、どうやら人間は、それ以上に退屈が辛い。退屈が牢獄の責め苦のように感じられることから逃れたい。

 それを逃れる手段が「気晴らし」である。退屈から目を逸らすために、おカネを出して、自分の自由時間を放棄して誰かに遊ばせていただく。そこで、だれもが王様(の境遇)に憧れていることがわかる。なるほど、王様は有象無象の取り巻きに囲まれて、気晴らしさせてもらっている。

 ダンテ(1265~1321)が、王様に招かれたとき、彼は他の取り巻きとは異なって沈黙していた。王様が「なぜ他の連中のように余を楽しませてくれないのか」問うと、「わたしはその任にあらず」と答えたが、阿諛追従の渦巻きの中にある王様が、その意味を解するわけはない。王様的幸福はダンテにとっては大いなる不幸であり、自分が求めないものを他人に与えるようなバカをやらないのがルネサンスの先駆者であった。 

 ところで、王様に気晴らしがない状態を考えてみる。なんの気晴らしもなければ、王様は、結局自分自身について考えるしかないだろう。それは、自分自身が思索し反省することである。取り巻き演出による気晴らしなどなんの意味もないことだと気づけば、王様は自分(自由時間)を取り戻すのであるが、価値観が倒錯したおつむにあるかぎり真実に気づかない。

 気晴らしとは、気をまぎらわすことにすぎない。しかも、静かに考えないためにせわしなくじたばたしているわけだ。たとえば狩猟を遊ぶ人は、獲物が欲しいのではない。第一義に求めるのは狩猟行為そのものである。目的がどうでもよくて、プロセスに気晴らしを求めている。

 賭け事に現を抜かす。賭け事中毒なるものは、実は獲得すること以上に賭けている過程に中毒する。本当に儲けを狙うなら賭け事中毒にはならない。賭け事は当然ながら賭けるものが大きいほど熱中する。熱中が連続するから中毒になる。競馬でお小遣いの範囲で三点張りなどやっても賭け事の面白みはない。賭けるものが大きく、かつ熱中できる対象は、おのれの人生である。

 気晴らしから始めて、次第に熱が入り、ついには中毒して人生を棒に振るという物語は大昔から絶えることなく脈々と受け継がれてきた。まさに、パスカルが主張するように、人間は悲惨であわれなものである。

 その根本を手繰れば、たとえば、玉突きで、ほんの少し玉を押すだけでも人は喜怒哀楽を示す。ほんの小さなことで結構気がまぎれたり、腐ったりするのは、人間の悲惨の演出者は「虚無」そのもののようである。いわば、人間はなにものをも持たない。いわば空っぽな存在である。

 空っぽな存在が、われわれが想像する大昔と比較すれば、とんでもない魔法の世界に生きている。いや、先人たちが作ってきたのは魔法ではなく、現実の世界である。パスカルを読み解いた三木清(1897~1945)は、「人間は運動体である」と喝破した。なにごとかを運動するからこそ人間である。自分がいかに運動して人生を作っていくか。そのためには、気晴らし・気散じ・気まぐれに乗っ取られないようにしなければならない。われわれの尊厳は、たぶん、考えることの中にあるにちがいない。