月刊ライフビジョン | 家元登場

古典論語に現代を読む

奥井禮喜
不支持52%から考えた

 5月後半の朝日新聞の意識調査で、安倍内閣支持率29%、不支持率52%となった。コロナウイルス騒動で面白くもない気分が拡大しているから多分に八つ当たり的なものがあるにしても、グラフで見ると2016年末から支持率低下、不支持率の上昇の傾向が明確に出ている。まあ、人気なんてものは実に要領を得ないのであって、どうしていつまでも支持率が低下しないのか不思議であった。長期政権というが、国会の議論は隆盛どころか低調を極め、16年以降、政権はスキャンダルからわが身を守ることばかりであった。だから、無理が通れば道理が引っ込むの数年は、論ずることが低俗化する一方で、面白くない思いをされた方々が着々と増加した。そこで、ひさびさに『論語』を開いてあれやこれや考えてみた。私にとって同書は、もともとあまり好きではないが、なかなかの気づきを与えられ、改めて先人の知恵の偉大さに気づかされた次第である。

糺せない議員たちへ

 政治は権力である。Aくんが自分の意思ではやりたくない事であっても、それをやらざるを得ないように仕向けるのが権力である。ところでデモクラシーにおいては、権力によって、ただ力づくで何ごとかを押し付けることは道理に外れる。つまり、誰もが従わざるを得ない権威がまず背骨としてあらねばならない。権威があるから権力を行使できる。ところがモリ・カケ・サクラの三連発において、もし、与党の圧倒的多数という力が存在しなければ、とっくに内閣は瓦解していた。政権がモリ・カケ・サクラのスキャンダルを乗り越えたのではなく、一切真っ当な答弁がなされないままに、政府与党が官僚のごまかし戦術で事件を宙ぶらりんに置いているに過ぎない。真実を語らず、真実にフタをしているのは権威ではない。多数派の言論封殺的権力行使である。権威によって権力が行使されず、権力によって権威が保たれているだけであるから、人心がじわじわ離反してきたわけだ。

やがては殷鑑遠からず

 為政者は1人ではない。政権を運営するのは1つの機関である。為政者=機関が政府与党である。機関において、客観的に理不尽で筋が通らないことに1人として気づかぬとは信じがたい。『論語』に「微子はこれを去り、箕子はために奴隷になり、比干は諫めて死す」とある。殷(前1023年滅亡)の紂王の無茶苦茶な政治を正そうとして、闘ったのが微子、箕子、比干である。この3人は憂国の士であり、人民に対する至誠の士であった。この間、政府与党には憂国の士がおられないということになる。いまや、権力者の過ちを諫めたからといって奴隷にされたり、死なねばならぬというようなことはありえない。わが封建時代においても、主従関係の強固さは、臣下が主君に諫言できるかどうかが士道の鑑であった。政府与党という機関において、過ちに対して諫言する人がいない。権力にぶら下がって惰眠を貪っていることが、やがては「殷鑑遠からず」ということになる。

過ちを改めず、これを過ちという

 『論語』に、四教という言葉がある。文・行・忠・信の4つである。順番に――読書する・実践する・誠実にする・信義を守る――である。政治家たるもの、学びを怠ることはないであろう。しっかりした知見を磨けば実践されるであろう。そして政治における権威が、選挙に勝てば必然的に生まれると考えてはおられまい。選良たることは、自らの誠実さと、日々の実践を通じて獲得する信義にありということも先刻ご承知だと思う。しかし、知恵を磨いても、それが悪しき事柄として実践されるのでは誠実・信義は成り立たない。すでに多くの政治家諸氏が、このままでは危ういことを認識しておられるはずである。「過ちを改めず、これを過ちという」。過ちに気づかないのは馬鹿である。気づいても改めないのは不誠実であり、信義にもとる。国民諸兄が「やんぬるかな」、いまとなってはどうしようもないと口に出すのが、さほど遠いようには思われない。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人