月刊ライフビジョン | 家元登場

現代の不要不急とは

奥井禮喜

生存欲求

 「不要不急」とは――どうしても必要でなく、急いでする必要がない――という意味である。意味はわかるが、わかったようでわからない。誰にとって不要不急なのか。1人ひとりの「わたし」の不要不急であるから厳密にいうと、日本の1.2億人の不要不急がある。安倍氏が財界・芸能界・政界・お友だちとの会食を止めたのは不要不急だからであろう。通年、会食しない日がないほどだった事実を考えると不要不急という高札の効き目は甚大である。では、どなたさまにも共通する不可欠の要・急は何か? 「くう・ねる」である。これを欠くと生存が維持できない。つまり要・急の第一は生存欲求を満たさねばならない。生存欲求を満たすためには「はたらく」ことが必要であるから、「くう・ねる・はたらく」の三拍子が要・急である。しかし、これだけでは動物的であって人間的でない。もし、三拍子だけであれば人類は今日の文化文明を築くことができなかったに違いない。

生存欲求  プラス X

 人類が今日在るのは、「くう・ねる・はたらく」プラス「X」があったからだろう。「X」とは何か? 生存欲求を基本的ルーチンとすれば、非ルーチン的行為である。行為は、思索と実践にわけられる。実践は思索があってこそだから、「X」の核心は思索である。思索とは現実世界から飛び出していろいろ思いめぐらし、想像するのであるから、ルーチン三拍子とは異なって、精神が「あそぶ」のである。「あそぶ」世界は想像世界であって、わたしの内面的生活である。それは権力であろうが、巷的通念であろうが、他者の容喙を許さずの境地である。すなわち「自粛」などが入り込む隙間がない。わたしは立って半畳、寝て1畳のカプセルに過ぎないから、さして他者の邪魔にもならない。少しの空間があれば存分に考えることができる。考える世界たるや古今東西南北に及ぶ。「あそぶ」の意味を手慰み程度に考えないことが大切だ。自由を知る人は「あそぶ」人に違いない。

X こそわたし自身

「あそぶ」、その精神が大切だ。「精神的なものに対する飢えがなければ人間は退屈する」。これはどなたも無意識であっても体験的に知っているだろう。何かを追っかけている人は溌剌としているとも表現できる。追っかける何かがあることは、その何かに飢えているのである。たとえば、熱が冷めれば、なんであんな人を追っかけたのだろうと不思議に思うが、実像よりも自分が飢えていたのであって、他人からすれば、彼(彼女)の恋の目標は実像(対象)を自分流に美化しているように見える。北大路魯山人(1883~1959)は、インタビュアーから「おいしいものが食べたいのですが、どうしたらよいでしょうか?」と質問されて、「腹を空かせなさい」と応じた。飢餓(意識)とは単に食欲だけではない。いや、食べるほうの飢餓もその関心は精神的なものではなかろうか。飢餓=目標で、だから、活力ある人は、いつも何かを追いかけているように見えるわけだ。

精神の遊び

 したがって人間的要・急とは、「くう・ねる・はたらく・あそぶ」と措定したい。不要不急とは何かから、では、その反対の要と急とは何かを考えてきたが、要・急は換言すれば人間的「要求」である。したがって、巷間「自粛」の対象たる「不要不急」の行為とは、本来、人間的「要求」ではないものである。ただいまの課題は見えざるウイルスと、安定した関係を築かねばならない。ウイルス感染は、人から人へであるから、感染しない程度の人と人との間隔を維持するのがよろしい。この人と人との間隔を維持しつつ「くう・ねる・はたらく・あそぶ」を工夫する必要がある。「あそぶ」思索は、自身の頭の中にあるからいかようにでも展開できる。人は概して歩きながら考えることが多いが、いまは、立ち止まって考える時期である。歩いている時気づかなかったことに巡り合えるのではなかろうか。さらには、いままで遊んでいたつもりが、そうではなかったことに気づくかもしれない。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人