月刊ライフビジョン | 家元登場

易姓革命

奥井禮喜

不審火炎上

 治政とは、世の中を治めるまつりごと、政治である。その中心が議会であり、議会活動を健全に高揚させるのは言葉である。だからといって政治家に言語学者であることを期待する人はいないが、言葉において真実、嘘や偽りがないことを期待するのは至極当然である。議会を言論の府というのは、言葉をもって、少しでもよい結論を出すべく論議することをいう。ある問題を解決するために話し合う。話し合いは、参加者それぞれが真実を語るというのが前提である。立場や主張する内容が異なっていても、口をついて出る言葉自体が信頼できるから話し合いが可能になる。もし、こいつは真実を語らないと規定されてしまえば、いかに言葉を飾ろうと、話し合いの基盤が成立しない。この数年、わが国会においては、不信感がもうもうと立ち込めている。与党対野党の関係だけではない。良識がある人は与野党の立場を問わず、最悪の言論の府と化していることを認識しているはずだ。

嘘を捏ねて真を擬す

 虚構というものは、事実でないことを事実らしく仕組むことである。もちろん、虚構が全てけしからんというのではない。問題解決においては、現状について関係者が認識を等しくしなければならない。問題解決の手段はいろいろあるわけだから、それらは実現するまでは大きくみれば虚構に属する。しかし、現状について虚構の認識を提示するのであれば、問題解決には全く貢献しないし、新しいものを作るとか、討論回路を経て、真実に立ち向かう精神に貢献することが不可能である。虚構を提示する人は、ある問題についての、知覚・記憶・想像が混乱しているか、最悪の場合は意識的に何ごとかを自分に都合よく捏造している。野党が国会で、行政への功労者を招待するはずの「桜」問題や検事長「定年」問題に目くじら立てるのは、決して小さい問題ではなく、虚構をあたかも真実のごとくに語ることが、議会における話し合いの信頼感を破壊する行為だからなのである。

放埓の出口

 虚構を平然と語る人は、自分が語っているのがきちんとした根拠がなく、自分が表現した事柄にすぎないという認識がない。わかりやすくいえば、幼い子どもが自分の頭に浮かぶことを何でもかんでも周辺に向かってしゃべるのと酷似している。その意味では、「3歳の子ども」が65歳の65歳の子どもになっただけである。子どもも尊重しなければならない1人の人間ではあるが、まつりごとの世界で子どもを演じてはいけない。まして権力者のポストに就いているのだから、決してあってはならない事態である。その人間だけについては、知性が足りないのであるけれども、それを幼児的意志によって押し出すのだから、治政が破壊されてしまう。言葉の重みがなくなったために、新型コロナウイルスCOVID19騒動においては、大方の国民が、当局者が発する言葉を信頼できない。ウイルスは天災に属するとしても、かかる事態によるパンデミックは間違いなく政治の堕落が生み出す。

易姓革命

 治政を全うに貫くためには、直接政治に関与する政治家の知性が問題になる。知性は、知覚によって受け止めたものを認識に作り上げる固有の人間の力である。知性が未熟な人間が政治家たることは常識外の事情である。また、知性がそれなりに育っていても、知性は意志の僕であるから、不埒な意志を持つ人間であれば、知性が備わっているだけ、政治を混乱させる危惧がある。率直にいって、安倍氏は65歳の子どもみたいであるが、それを取り巻き追従している数多の政治家は、子どもが子どもだということを熟知しつつお付き合いしているらしい。それらの意志は、国民国家のための政治ではなくして、自分が政治家として君臨できさえすればよろしいのである。間違いなく、政治家的道徳ではなく、利己的人間のそれである。「自ら虫けらになるものは踏みつけられても文句はいえない」。政治家という幻想を唯々諾々受けて入れている国民ばかりではないことをおおいに期待する。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人