月刊ライフビジョン | 家元登場

我が愛しの関西風

奥井禮喜

関西風

 最近リリースされたデジタルシングル『関西風』という歌を聞いて、いろいろな想いが去来した。1963年3月末、島根の浜田駅を立ち、兵庫の塚口駅まで数時間、不確かな地図を頼りにたどり着いたはずの寮が見当たらない。住所は合っている。実は、寮の前に立っていた。会社案内に鉄筋建築の写真があったが、わが寮は木造で田舎の小学校風なのであった。まず調子が狂った。板の間15畳に木製畳敷きベッドと引き出し無しの小さな木机が、わが新居。同室4人、東京・三重・香川・島根ととりどり、みんなが木造寮にはだまされたとぼやく。鉄筋建築寮は建築中で1年後入居すると説明されたが、説明する側も聞く側も居心地がよろしくない。同期生100人、九州・四国・中国・中部が主体で、少し関東出身者がいた。なぜか同室の連中とは昵懇にならず、東京と姫路と島根で三羽烏を構成した。配属された職場は機械設計で、後で知ったが、事業所内ではなかなか羽振りがよろしかった。

汎西弁

 職場のみなさんの出身地もさまざまだが、大阪・兵庫採用者が2割ほどか、標準語は地元関西弁というわけだ。本来関西弁は京都・大阪だが、滋賀、兵庫、奈良、和歌山も他所から見れば関西だ。よくよく観察すれば、それぞれの言葉はかなり違う。大阪だけでも船場風あれば河内・和泉風などあり、兵庫の海岸沿いと内陸もおおきに違う。神戸といえばおしゃれでハイカラだが、女性の言葉のそっけないことに驚いたりした。で、岡山的関西弁、島根的関西弁など、出身地的関西弁が賑わうわけでちょっとした合衆国である。わたしなどやがて東京へ来て、あちらこちらで講演すると関西弁が印象的だなどと言われたが、島根県西部石見地方のイントネーションがいつまでも変わらずとても関西弁などと言える代物ではない。会社は関西から発祥しているので、東京本社でも関西風が幅を利かせており、東京で育った人が関西勤務したこともないのに関西弁を話すのが面白かった。

Pan Osaka

 30歳先輩と親友になった。現業労働一筋だが博学、よく読書をされた。悩み多い15歳のころ、教会から聞こえてくる讃美歌の美しさに魅かれて入信、読書を愛し、芸術を愛し、人を愛すること人後に落ちない。大阪下町生まれで生涯を大阪で送られた。あまり頑強ではなく風が吹けば飛ぶような痩身でやわらかい雰囲気を漂わせておられる。大きな声を出されたことがない。しかし気骨稜稜、おだてるのが上手、多少血の気の多いわたしは、しばしば上品なアジテーションに乗せられたのではなかったか。質素、清潔を旨として、薄くなった頭にいつもベレーを載せておられた。いわく「暮らしは低く心は高貴に」、労働者的貴族というべき品位があった。飄然としているようで核心を捕まえて離さない、働く知性人としての魅力には格調高い人事マン諸氏にも組合活動家諸氏にもたくさんのファンがいた。思うに、氏こそ生粋の大阪人であったのではなかったか。

環西人

 先輩が、「じゅんさいな奴はあかん」と言われたことがある。蓴菜(じゅんさい)とは、沼地に自生するスイレン科の水草で、若芽・若葉は食用として珍重される。ぬるぬるぬめぬめとしていて、つかみどころがないところから、大阪弁ではでたらめ、いい加減なことを言う。じゃらじゃら、べらべら言って信用できない、果ては内股膏薬、定見・節操のない者という意味である。筋を通さねばいかん。筋を通さず、無理を通せば世の中が乱れる。今様、親分の言うことやることならば何でも忖度して恬として恥じない上級官僚諸君みたいなものだ。反対に、たとえば関西風では「はんなり」という言葉がある。はなやか、はればれ、明朗、陽気で気質がくすんでいないのである。わたしが関西で出会った親しい人々はすべからく「はんなり」組であった。最近の大阪は、どないなったんねん。維新を名乗るけったいな政党が幅を利かせているのを見ると、わが愛しい関西が懐かしいのである。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人