月刊ライフビジョン | メディア批評

北大教授拘束事件にみる過剰な反応

高井潔司

 11月初め、国際交流基金から派遣されて、北京大学へ講義に行ってきた。北京大学の博士課程の学生を対象に、日本の政治、経済、社会、文化などを理解してもらうために、日中双方の研究者約10人が毎年行っている正規授業だ。私は今年で4年目の出張講義となる。

 今年はいつもと様子が違っていた。出発にあたって、何人もの友人、知人から、「北京で捕まらないようを気を付けてね」と声を掛けられたのである。ちょうど、出発の2週間ほど前、北大の教授が北京で拘束されたという報道があったためだ。ただし、私自身は友人たちの声を、軽口だろうと受け止めて出発した。

 ところが、講義の初日、教室に某メディアの北京特派員が私を取材に現れたのである。まさか私が捕まっていないか、確認しにきたわけではあるまいが、この講義が中止になったり、あるいは私が講義をボイコットしたのではないかと期待して取材に来たようだ。「何か日本の大学から指示がありませんでしたか」と特派員はえらく神妙な顔つきだ。現地の記者がここまで警戒しているのだから、日本の友人たちの声も軽口ではなく、本当に心配の声だったのかと、私は自身の鈍感さ加減を多少反省した。

 このように日本を挙げて過剰な反応になったのは、二人の東大教授のマスコミでの発言のせいではないかと、私は勝手に“推測”している。私の出発直前の11月1日の朝日新聞に高原明生教授が「(私の視点)日本人研究者拘束 学界衝撃、日中交流に暗雲」というタイトルで投稿している。高原教授は「拘束理由は依然不明だが、歴史研究者が研究活動をしたことで勾留され、人身の自由を長期にわたって奪われるようであれば、友好的な交流などできなくなってしまう。日本の学界の動揺は大きい」と書いている。実は高原教授は私の講義の後、12月に同じ教壇に立つことになっているから、私を取材に来た北京特派員の嗅覚は鋭いと言えるかもしれない。

 もう一つの記事は、「現代ビジネス」(講談社)というネットメディアに川島真教授が書いた「中国『教授拘束事件』の意味…内外の研究者に及ぶ管理・統制――関係「改善」とともに進む対日強硬策」である。川島教授は「もし十分な証拠もなく拘束したならばそれは人権問題でもあるし、何かしらの政治的な意図に基づく行為であるのならば、それが中国の国際的な心象、あるいは日中関係などに落とす影は計り知れない」、「今回の事件は日本の学界、言論界に大きな衝撃を与え、少なからぬ研究者が訪中を断念し、幾つもの会議が延期、または中止された。それは今回の拘束の理由が明確でなく、理由が属人的なことなのか、ある要件を備えていることによるのか、それとも不特定多数に適用されることなのかがわからない。そのため、多くの研究者が訪中を危険視した。さらに、今回のことに関し、中国側に抗議の姿勢を示そうとする向きもある」と書いている。

 川島教授は高原教授と共に、いまや日本を代表する中国研究者である。川島教授の記事はネットメディアということもあって、たちまちツィッターで拡散して多くの人に読まれていると、私の元の教え子が教えてくれた。

 私はすでに退職し、学会活動にも参加していないので、研究者の皆さんがそこまで衝撃を受けているとは正直驚いた。ただ、お二人の記事を読んで、書いていることはごもっともだが、お二人とも仮定、推測でものを言っている点に、私は疑問を感じた。中国側が事実を公表していないのだから、仮定や推測に頼るのはやむを得ない面がある。だが、それは報道ならまだしも、学者、特に権威ある学者がやることとは思えない。

 敢えて推測するなら、米中関係の悪化がここまで日常化し、中国が対日接近を試み、来春には習近平国家主席の訪問も予定される中で、一教授を、政治的な意図で拘束するなんてことがあるのだろうか。何らかの理由があって拘束され、目下その取り調べ中だと推測するのが筋ではないのか。

 もっともお二人の熱烈抗議のおかげもあってか、北大教授は11月15日保釈され、無事帰国した。中国側は北大教授が「9月8日、中国の国家秘密に関わる資料を集めていたとして滞在先のホテルで反スパイ法違反などの疑いで国家安全当局に拘束されたと説明。当局の取り調べに対し、教授は容疑を認めた」と発表した。事件の真相はもちろん、この発表で十分明らかとはいえないが、もし反論があれば北大教授も記者会見して事実を明らかにしたらいいと思うが、目下沈黙を守ったままだ。

 この種の資料収集で、拘束されたり、国外退去させられたりすることは、情報統制国家の中国ではよくあることだ。私はかつて新聞社の北京特派員を務めたこともある。特派員としてこの点常に警戒していたことだった。実際、私の同僚二人も同種の事件に巻き込まれている。中国を報道や研究の対象にする限り、宿命とも言える。情報統制をけしからんことと言えば確かにけしからんが、相手にしてみれば、それは国家の安全に関わることであり、日本だって機密保護法を制定しているではないかと反論することだろう。ともかく、「学界に衝撃」などという事件ではない。

 そして邦人が取り調べを受けるのは、多くの場合、誰が協力者であるかを割り出し、中国側の協力者を処罰することが多い。中国側の発表がウソでなければ、北大教授にも資料を提供した人物がいたはずだ。中国を報道や研究の対象にする場合、自身の安全だけでなく、協力者の安全にも気を使う必要がある。厄介な国であることは間違いない。

 最後に念のため、おことわりしておくが、二人の教授の記事を批評したのは、決して中国政府を弁護するためではない。過剰な反応をすることが、まるで理由もなく日本人を拘束する国などいう中国イメージを世論に拡散してしまうことを懸念したまでのことだ。

 私は目下、戦前の日本の中国論、中国報道の問題点について研究している。「満州事変から支那事変まで」、いかに日本の世論が不確かな情報やフェイクニュースによって、中国への疑念、敵意を燃やし、「暴戻支那」を「膺懲」すべきと踊らされてしまったかを痛感している。中国研究者、報道人は事実をしっかり確認した上で、情報発信すべきだろう。

 こんな思いでメディアをウォッチしていたら、NHK28日の朝7時のニュースで、「中国のパラリンピック強化施設“虎の穴”を初取材」という特集を放送していた。前回のリオ・パラリンピックで日本が金メダルゼロに終わったのに対し、中国が100以上の金メダルを獲得した背景を探るため、中国のパラリンピック強化施設を初取材したという。なぜ「虎の穴」なのか、全く説明がなかったので、私は「虎穴に入らずんば虎児を得ず」のことわざを思い起こし、中国をよほど「危険な場所」とでも言いたいのかと推測してみた。私の頭の中に上記の北大教授拘束事件の国内の反響のモヤモヤがあり、そう推測してしまった。しかし、調べてみると、北京五輪以来、オリンピック選手の強化施設を「虎の穴」と称するようになっているらしく、私のとんでもない誤解だとわかった。

 ただし、この特集ではパラリンピックの強化施設だけでなく、北京で開かれた障碍者サポート設備、機器の見本市の光景やその見学に来ていた障碍者の声を紹介していた。中国の障碍者支援対策が想像以上に進んでいることを紹介していた。「虎穴」に入り、「虎児」(中国の障碍者対策の実相)を得たようである。

 最近日本で開かれたあるシンポジウムで、パネリストの一人が北大教授の拘束事件に絡めて、「中国には行かない」と威勢のいいボイコット宣言をしたそうだ。中国研究者が中国に行かないで研究ができるんだろうか。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」である。


高井潔司 メディアウォッチャー

 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。