月刊ライフビジョン | 地域を生きる

放課後の子どもたち-1

薗田碩哉

 わが住む多摩市のマンションの子どもたちが通っている小学校で「放課後子ども教室」の充実を図ろうという動きが出てきた。地域の活動家爺さんたちが画策して市当局や学校との話し合いを続け、地域が協力する放課後の子どもクラブとして従来行って来た囲碁と書道の教室に加えて、学習支援や戸外での遊びやスポーツもある、幅の広い放課後教室を展開しようという計画である。

 「放課後子ども教室」というのは、放課後や週末に小学校の空き教室を活用して、子どもたちにとって安全・安心な居場所を作り、学習活動やスポーツ・文化芸術活動、地域住民との交流活動などを行って、子どもたちの社会性・自主性・創造性を養おうという事業で、文科省と厚労省が予算を出し合って平成19年度から全国に展開されている。その運営にあたっては「地域の方々の参画」が期待されていて、それによって地域の子どもと大人の交流を進め、地域コミュニティーの充実を図ろうという、たいへん結構な事業なのである。

 制度がスタートして12年、文科・厚労両省は「原則としてすべての小学校区において、総合的な放課後対策を推進する」という方針のもとにこの事業の浸透を図ってきた。そのため大抵の小学校ではそれらしい何かが行われているが、自治体によって、また学校によっても大きな差がある。筆者の周辺を見ると、隣りの町田市は全小学校区で実施し、学校によって濃淡はあるものの学習から体験活動まで多彩なプログラムが展開され、地域から参画した世話役には時給1000円の報酬が出る。他方で多摩市は開設日数が少なく、プログラムも貧弱、「安全管理員」の報酬は1日1000円に過ぎない。今回の爺さん連の動きは、出遅れたわが町の子どもの放課後活動支援を、地域のパワーで前進させようという取り組みなのである。

 あらためて、子どもたちの「放課後」について考えてみよう。その昔、筆者らが子どものころは、放課後は文字通り課業を放り出して遊ぶ時間だった。遊び場としては学校に居残って校庭でドロケイ(泥棒と警察)遊びをしてもよく、友達と道草喰って半分遊びながらのんびり家に帰ってもよく、家に着いたらカバンを玄関に放り込んでまたぞろ遊撃に乗り出してもよかった。要は放課後とは子どもの領分であって、大人の介入を受けずに子供が子どもらしくしていられる自主・自立の時間・空間を意味していた。

 今はどうだろう。課業が終わったら勝手に学校に残っていてはならない、転んで怪我でもしたら管理責任が問題になるからだ。道草なんか論外で、登下校のグループが出来ていて決まったルートを整然と帰るのだ、痴漢や暴漢が子どもを狙っているからだ。家に帰ってもたいていの家に親はいない、共働きでなければ母親はパートに行っているからだ。鍵っ子になって家で一人ゲームをしているのが嫌なら、小学校の校庭の一角やその近くにある学童クラブに入れば、専任の指導員が面倒を見てくれ、おやつも出る。とは言え平均して月4千~6千円ほどの利用料が必要になる。

 それよりも多くの子どもは放課後に学習塾に通っている。塾のない日はピアノやバレエのお稽古、スイミングクラブや野球・サッカーのクラブもある。今の子どもは忙しくて「自由な時間」がなかなか見つからない。子どもたちが手帳を取り出してお互いの隙間の時間を確かめ、遊ぶ約束を書き入れたりしているのは、ビジネス手帳を愛用するパパたちとそっくりだ。

 子ども放課後教室は、以上のような「放課後吸収装置」を利用しない・できない子どもたちの救済事業としての一面を持っている。放課後教室は行政の多少の支援と地域のボランティアに支えられて基本的に無料である。学校という囲い込まれた空間で子どもたちを見守り、学習支援やレクリエーションを提供してくれる、有難い場所と言えるだろう。だが、それだけなのだろうか。放課後教室はもっと重要な可能性を持っているのではないか。それは子どもの自由な放課後を取り戻すという課題である。(次号に続く)


《地域に生きる55》 ボランティアの指導で的当てゲームを楽しむ子どもたち

 放課後、校庭の一角で、授業では見たことのない「ニュー・スポーツ」を楽しむ子どもたち。プログラムを指導してくれるのは町のレクリエーション連盟のおばさまだ。(町田市で)

 薗田碩哉(そのだ せきや) 1943年、みなと横浜生まれ。日本レクリエーション協会で30年活動した後、女子短大で16年、余暇と遊びを教えていた。東京都町田市の里山で自然型幼児園を30年経営、現在は地域のNPOで遊びのまちづくりを推進中。NPOさんさんくらぶ理事長。