月刊ライフビジョン | ビジネスフロント

不寛容な国民性を憂う

渡邊隆之
 9月26日、文化庁はあいちトリエンナーレ2019の補助金7820万円全額の不交付を決定した。展示内容のひとつ「表現の不自由展・その後」の作品が問題とされたことによる。
 同展示のうち、「平和の少女像」や昭和天皇の写真を燃やす展示等に対し反日的作品との抗議や脅迫が生じ、開会から3日で展示中止となった。(のち安心安全セキュリティー対策が施され、閉幕前7日間のみ再開された。)
 今回の展示中止が表現の自由に対する実質上の「検閲」にあたるのか、問題とされない表現活動も含めて補助金全額不交付とすることが萎縮的効果を与えないかなど、さまざまな記事を目にする。
 実行委員会のサイトには、「いま日本社会において言論や表現を自由に発信できなくなってきている。この「不自由」は(5年前に比べ)さらに強く広範囲に侵食している。自由をめぐる議論の契機をつくりたい」とある。
 不可解なのは、この作品に抗議するネット書き込みである。トリエンナーレは3年に1度開催されるにもかかわらず、「毎年行っていたのに残念だ。もう行かない。」といった類の発言である。また、観客の安全を守れないとして展示が中止に追い込まれたのであれば、いわば暴力の容認である。
 今回の補助金不交付の範囲は7820万円全額である。あいちトリエンナーレ2019の総事業費は108824万円で、「表現の不自由展・その後」分は420万円と、全体の約0.39%である。
 あいちトリエンナーレは美術愛好家に根付いたイベントという。しかし今回のように、政府や特定の考えに忖度した芸術品でないと補助金が交付されないと受け取られるならば、出展者も観客も遠ざかっていく。
 「表現の不自由展・その後」で訴求したかった、「自由な表現が発信できなくなっていくプロセス」を考えることは重要である。参院埼玉補選での低投票率20.81%にみられるように、政治への民主的コントロールに対する国民意識もかなり下がっている。
 今回の別会場で掲げられた、「私たちの社会を不寛容から救うために」「よそ者・若者・ばか者を受け入れる」「常識的な規範を超えた表現は人々の固定観念を揺さぶる」とのコンセプトは斬新だ。寛容な国民が増える方向を探っていきたいものである。