月刊ライフビジョン | 家元登場

信ずるために判断するのは誰か

奧井禮喜

「食」業としての政治家

 印象に残った言葉である。全国行脚をしている山本太郎氏の街頭演説を聞いていた人が、山本氏に「信じていいんですか?」と言うのだそうだ。山本氏がどんな言葉で応じたかは知らないが、彼が説得の対象として念頭に置いているのは、このような人であろう。山本氏をポピュリストとする見方があるが、そのようなレッテルはどうでもよい。第一、ポピュリストの定義が依然として不明確であり、仮に誰もが認める規定があるとしても、それによって人々の人気をかたじけなくいただけるというものでもない。演説は、ライブであるから趣旨や表現が同じでも、必ず拍手大喝采とはいかない。抽象的であるが、演説者と聴衆の間にラポール(親和関係)ができるかどうかに大きく影響される。山本氏はすでに人気者であるが、「信じていいんですか」という人を忘れず、その姿勢を貫徹するならば、既存の政党政治家とは異なった政治的世界を切り拓く可能性を持っている。

HearとNo

 既存の政党政治家は、意識しているか無意識かはともかく、あらかじめ自分の考え方に共感する人を想定している。街頭演説で集まってくるのは概して支持者ないしシンパサイザーである。たとえば、わたしは与党議員の演説を求めて聞きたくはない。たまたま事務所の外でしゃべっていれば聞きたくはないが聞くしかないから聞くに過ぎない。報道が発達している今日では、政党政治家の考え方は先刻ご承知である。明治時代前半の政治演説は、聴衆の「ノー、ノー」「ヒヤ、ヒヤ」の声が入り混じった。気に入らなければ「ノー」、それに対して共感派は「聞け」と野次り返したわけだ。賛否両論にしても、演説者と聴衆の熱い交流が発生した。与党議員が野次を嫌って警察官に排除させるなんて事態は、明治後半以降、官憲が労働者の集会に弾圧を加えたのと同じで、デモクラシー以前である。賛同者だけが聞いてくれればよろしいという排他的かつ広がりのない政治集会である。

就職先としての青雲

 おおざっぱに言って、少なくとも国民の半分はいわゆるノンポリ層であろう。政治と無縁、むしろそれを歓迎するような気風が日本的デモクラシーの実情である。このような事態においては、政党政治は徒党政治化する。猿は木から落ちても猿だが、政治家は落選すればただの人である。もともとさしたる政治的見識を養っているわけでもないとすれば、本音は政界株式会社に就職したい。とすれば、当てにならない人々の政治意識に働きかけるよりも既存の多数派に参加する。寄らば大樹の蔭である。論を持って訴えるのではなく、現状維持の安定感覚に便乗するのが手っ取り早い。仮に既存政治の政党配分が固まっているならば、わざわざ苦心してノンポリ層に働きかけるよりも、身内を固めるのが確実である。選挙で投票率が下がっても政治家諸君に危機感がまったくないのがその証明である。徒党政治は人々の政治意識を高めず、それどころか政治をどんどん劣化させる。

信ずるだけでは救われない

 このような事情において、政治をはつらつたるものに転換するためには、ノンポリ層、アパシーに漂っている人々に対して、いかなるメッセージを届けられるか。「信じていいんですか?」と言う人は、善意の人である。政治に対する抑制的態度である。理解できない先端科学について、素人がくちばしを挟むべきではないというのと同じで、政治問題を最善の人々に委ねるという善意である。ところが、実際はきちんと仕事ができていないのであるから、政治は、自分が処理しなければならない課題であるという認識をするしかない。あらゆることを疑ってみる。政治を自分の言葉で考える。これが出発点である。いわば働く人にパラサイトしている政治家が「働き方改革」「人づくり」などと臆面もなく語ることについて疑問を抱かねばならない。納得できもしないのに疑わず、信ずるだけであれば、必ず裏切られる。「信ずるものは救われない」という性根を持とうではないか。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人