月刊ライフビジョン | 家元登場

専制軍国を潜ってメーデー90回

奧井禮喜

メーデー今昔しのぶれば

 今年のメーデーは第90回目であった。わが国のメーデーは、1920年が第1回で、35年の第16回を最後に軍国主義下の専制政治で禁止された。敗戦後46年の第17回メーデーで復活再開、以来途切れず継続開催されている。60年代後半からメーデーの性格について論議が起こった。政治的課題をいかに扱うかが論議の焦点である。当時、労働界は総評・同盟・中立・新産別の4団体に分離しており、それはまた政治的党派性の違いであった。それをまとめ上げて開催する中央メーデーは、極論すれば常に分裂の可能性を秘めていた。第50回(79年)は石油ショックを乗り切って、ようやく社会的に落ち着いた時期であった。代々木公園での中央メーデーには参加者40万人、全国各地1123会場には550万人が参加した。中央メーデー集会後は6コースにわかれてデモ行進する。代々木公園を最後尾が出発するまで4時間程度を必要とした。

期待の強さが万雷の拍手に

 メーデーは働くものの祭典である。お祭りだから家族ぐるみで和やかににぎやかにやろうとはいうものの、賃金・労働条件の不満は強い。失業者が300万人程度いる。雇用安定が不可欠だ。週休2日制は大企業ではだいぶ導入されたが、まだまだ浸透していない。社会保障制度に対する要求は切実である。日本経済を国民生活優先型にせよという声は働くものの大きな期待である。戦後一貫している保守政治を変えなくてはならない。このような課題は4団体に分かれていても大方合致する要求である。第50回メーデーの壇上には、主催団体の天池(同盟)、槙枝(総評)、竪山(中立)の各団体トップが顔を並べ、全野党(社会・公明・民社・共産・社民連)の党首が勢揃いして祝辞を述べた。全国一律最賃・労働基本権確立・婦人労働権確立・年金医療抜本改善、憲法改悪反対・核兵器完全禁止・非核3原則の立法化などの要求項目が掲げられた。万雷の拍手であった。

仇敵をつなぐメーデー男

 中央メーデーを裏方として仕切った故・山﨑俊一さんは、知る人ぞ知るメーデー男といわれた。温厚篤実な性格で、うるさ型揃いの各団体代表との調整にてんてこ舞いされた。ある時は、せっかくまとめた開催案を総評に持ち帰ると異論反論が噴出して、「辞めさせてもらう」とプッツンしたこともある。70年代前後、警察と組合はいわば仇敵関係であったから、警察の協力を得るのも並大抵ではなかった。学生団体が参加させてくれと申し込んできて、ねんごろに打ち合わせしたにもかかわらず会場周辺でジグザグデモをやられて怒り心頭したこともある。会場に出店したいという的屋との交渉も大変だった。いずれにせよ最大の厄介は、どこから弾が飛んでくるかわからない論客との関係である。「祭典か、闘うメーデーか」という論点の背後には、政治的スタンスの違いがあった。内外の緊張感に溢れた中央メーデー時代は、メーデーを開催する組合の運動のてっぺんであった。

中央メーデーに職場組合員を

 中央メーデー参加者40万人というのは当然ながら、組合役員だけではなく組合員とその家族が参加したからである。いまのメーデーは、大方は組合役員であろう。働くものの祭典という明るさや迫力がないのは仕方がない。もし、組合役員ではなく、職場の組合員が集まったらどうだろうか。少なくとも、わが国の労働運動の旗振りする頂点と組合員が直接対面する機会になる。わたしは8年間、組合支部(2千人)で活動した後、本部で活動することになった。おこがましいが、自分に与えられた範囲で新しい活動を作ってやろうと意気込んだ。ところが、すぐ近くに話ができる組合員が1人もいない。しばしば電話して雑談させてもらったが、足が地上に着いていないという気持ちは否定できなかった。いまの組合活動の活気のなさは、大衆運動としての性質が欠落している。中央メーデー会場に、組合の軸はあるが、大衆運動の姿が見えない。組合は大衆運動なのである。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人