月刊ライフビジョン | 家元登場

いつも支えていないと倒れるもの

奧井禮喜

民主主義からの離別状

 1776年のアメリカ独立、1789年のフランス革命を起爆剤として、欧米に民主主義の大きな流れが興り、カール・シュミット(1888~1985)の言葉を借りれば、19世紀は民主主義の凱旋行列であった。民主主義によって、君主政治・貴族政治に別離状を手渡したのである。ブルジョワ層が新しい社会の主導権を掌握する流れは加速し、確固たるものになった。ブルジョワ層のめざす価値観が何なのか。フランス革命は「自由・平等・博愛」を掲げたが、経済的分野で優位に立つブルジョワ層が儲けやすい社会をめざしたのは必然の流れであった。富を際限なく貪るブルジョワ層に対して、労働者の抗議・抵抗の動きが活発になったのもまた当然であった。かくして欧州では19世紀後半に向けて労働争議を中心に社会的騒動が収まらなかった。その流れにおいて、労働者の政治参加への歩みが進んだ。組合の赤旗は、労働運動の歴史のもの言わぬ証人である。

欲望の拡張と収奪

 1914年6月28日、サラエボ事件が発生した。オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がセルビアの1青年に暗殺された。暗殺が珍しくない時代である。同7月28日にオーストリアがセルビアに宣戦布告した段階では、それが第一次世界大戦の口火になろうと考えた人はほとんどいなかった。戦場は拡大の一途をたどった。三国同盟(独・墺・伊)と、三国協商(英・仏・露)の対立が背景にあった。外交問題は政府の専権事項であり、軍事は軍隊の掌中にあり、いわば、いずれの国民も戦争の発端から拡大に至っても事の次第が十分に理解できなかった。イタリアは同盟を抜けて協商につく。トルコ・ブルガリア、日本、アメリカ、中国も協商側につく。協商側のイギリスがトルコに宣戦する。日本は対中21か条をぶつける。くんずほぐれつ敵味方入り乱れての複雑怪奇な戦争の根本を掘れば、領土拡張・利権収奪のどろどろした欲望が見えてくる。

支配被支配主者従者

 わたしは高校時代から民主主義といえば、なにやら精神的高邁な心地がした。少し勉強して歴史をさかのぼってみると、英雄豪傑物語の英雄が少しも立派に見えない。いわば講釈師調の伝記がすっかり嫌いになった。もちろん、どんな人物でもいささか自慢できるエピソードはある。しかし、その生涯のなした業を知れば知るほど虫唾が走る。何より嫌だったのは「島国根性」の類である。何ごともおらが大将、なんでもくっついてくる一族郎党を従えて大きな顔をしている連中を称賛するなどとんでもない。鎖国というものがいかに日本人を井の中の蛙にしたか。子ども時代の田舎町には、封建社会ばりに鎮座まします旦那がいた。思い出してまた腹立たしい。民主主義になって四半世紀過ぎても、「会社といえば親も同然、従業員といえば子も同然」などとのたまう人がいて、ギョッとしたこともある。新しい革袋になっても臭くなった酒が自然消滅するわけではない。

民主主義でも独裁を生む

 さらに考えてみると、民主主義といっても、保守的かつ反動的な方向へ突き進むことは十分にありうる。権力者と従属者の関係は民主主義であっても解消しない。たとえば民主主義は選挙で政治家を選ぶ。選挙は投票に基づいて全体の意思が決定される。理想をいえば、最善らしき選挙結果が出て、全体意思が決まったのだから、それに従うのが当然である。一方、選挙制度だけでは、少数者が正しくて多数者が誤っているという問題の発生を防ぐことができない。政治は多数を獲得する行為であるが多数者が正しいという保証はない。議会主義は民主主義と離反する危険性をつねに含んでいる。民主主義自体が独裁を生み出す可能性も否定できない。民主主義を守ろうという呼びかけだけでは中身が伴わない。民主主義だからといって戦争しない保証もない。小さな火種が燎原の火となってからでは遅い。ポピュリズム的デモクラシーは、憧れの民主主義ではないことを痛感する日々である。