月刊ライフビジョン | 論 壇

OUT OF POPULISM

奥井禮喜

 この小論は、ポピュリズムについて考える。いったいポピュリズムとは何か? おおざっぱに、大衆の関心である利益・権利・願望・不安・恐れなどに便乗して、政治的リーダーシップを掌握して、いかにも民衆向けに政治をおこなっているように見せかける政治であるとしておこう。

古希を超えた子ども

 米国大統領トランプ氏の政治スタイルが典型的である。「アメリカ・ファースト」というナショナリズムを掲げ、経済的に弱い白人層の支持を取る。保守的カトリック層も然り。政治的・経済的に隠然たる力を誇示するユダヤ人社会には徹底してサービスする。国際関係がどうなろうと知ったことではない。ナショナリストは看板で、極めつけ自己中心主義者である。

 従来、体制を仕切っていた経済的エリートや知識人との対決色を打ち出す。氏自身が富裕トップ階層に属するから、富裕層減税など対策もおさおさ怠らない。経済的強者と弱者の関係からすれば、経済的エリート批判がインチキだということがよくわかるが、ナショナリストの厚化粧でごまかす作戦である。

 わが道を行く、強いリーダーの演出にも心がけている。極端な思い込みと、真偽ないまぜにしたツィート戦術を、メディアが1つひとつ追いかけて暴露しているけれども、なにしろ自由奔放に次から次へと噴出するのだから、「パンとサーカス」に熱狂する群衆はツィートを面白がるわけで、メディアの暴露戦術がなかなか効果を現わさない。他者の指摘に耳を貸さないのは、政治家としては失格なのであるが、変化のスピードで切り抜けている。

 人間は、自分が何であるかを知っている。だからこそ、人間は現実的なのである。自分が何であるかというのは、社会的存在としての自分についての認識である。ところが儲けることに関して天才的技量を持っているとしても、それが社会における大人である証明にはならない。三つ子の魂百までという俗諺がある。「我」が芽生えて3歳の大人になった子どもが、長じて古希を超えた子どもになるというパラドックスを否定できない。

英雄豪傑の国盗り物語

 小泉純一郎氏が日本政治の天下取りを果たした際、自民党員でありながら、「自民党をぶっ壊す」とぶちまくったのを思い出す。本気でぶっ壊す気はハナからないのだが、「剛腕のリーダー出よ」という、まさに群衆的ポピュリズムの拍手喝采を浴びる脚本・監督・演出・主演で大成功を収めたのであった。大立ち回りの舞台の陰では、新自由主義という、要するに自由放任の古典的資本主義へ大きく舵を切った。まさに、「敵は本能寺にあり」作戦で、人々は見事に乗せられた次第である。

 ポピュリズム政治家は、選挙を制することにかけてまことに卓抜した技量を発揮する。「政治は言葉の技術である」というのは昔の話で、彼らの技術は、いかに敵を作り、敵を群衆にも敵と思わせるか、という点に集中する。

 彼らは選挙技術者である。その点、新約聖書的「太初に言葉ありき」(ヨハンによる福音書)ではなく、ファウスト的「太初に技ありき」を見事実践している。蛇足ながら、もちろんゲーテ描くところのファウスト博士は「勝てば官軍」のような下賎な思想の持主ではなかった。

 理性は対立者を和解させる。対立するAとBが統一されたCになるというのは、理性的人間同士の話である。意図的に敵を作り出そうとする人間には、真の統一に止揚するという弁証法的理屈は通じない。

デストロイヤー

 言葉の価値を否定して、ひたすら選挙技の実践に精出すのが安倍晋三氏である。神羅万象ことごとく支配しているかのような美辞麗句を連ねるかと思えば、議会答弁などほぼ全面的に無視する。

 これ、あたかも神の声「これは私の愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイによる福音書)に基づいて行動しているごとしだ。安部氏にすれば、キリストのごとく「弟子(与党議員)はその師以上のものではなく、僕(野党議員)はその主人以上のものではない」(同)というエリート意識なのであろう。

 この数年、モリカケ問題はもちろん依然として大問題であるが、法律の審議が極めて内容を欠いている。法律は決まれば、人々に従うことを要求する。絶対権力の時代ではない、デモクラシーである。いや、絶対権力の時代でも、法律は命令の力ではなく、国民の納得性を第一とするのが考え方であった。

 新聞記者の質問にまともに応じない。西欧の民主主義国においては、「戦時中であっても、いや、それゆえなおさら言論の自由は守られねばならない」というのが規範である。わが国においては、平時においても報道の自由を拒否している。言いたくはないが、デモクラシーの国ではない。安倍内閣は、デモクラシーに対するデストロイヤー集団だというべきである。

怒りの本質

 おそらく、世界中の人々が目の前の政治に怒っているであろう。まさか、「仮は真、真は仮」(『紅楼夢』)とばかり超然としているとは思えない。堕落した政治芝居に対して、さりとて自分がそれを解決する手立てがないとすれば、やり場のない心理状態を避けるためにゲームの外へ出たくなろうというものだ。

 そもそも怒りという感情は、あらゆる感情のうちでもっともおぞましく、狂いじみたものであって、真実を公正に見極める力が弱まる副作用がある。かつて首相・中曽根康弘時代に、嘘つき解散されて、群衆は明らかに憤っていたのであるが、蓋を開けてみれば罰せられたのは野党であった。「怒りは理性の敵である。一方、理性は、理性の入る余地がないところにはどこにも生じない」(『怒りについて』セネカ)という言葉を味わう必要がある。ポピュリズムとの闘いは瞬間芸では果たせない。めらめらと燃える冷静な怒りが大切だ。

自分主義と全体主義

 さて、このようなポピュリズムを生んだ背景は何だろうか?

 現代は、大衆を組織する方法を知り得たならば、すべてが可能と考える、人間の全能性を信じる人たちと、無力感だけが人生の主要な経験になってしまつた人たちとに二分されている。(『人間の条件』1958 ハンナ・アーレント)この主張はほとんど的中している。

 もちろん、おこがましくも全能性を信じる人は少数である。一方、無力感が人生の主要な経験となった人々は多数派である。多数派が、社会的問題を重視せず、政治的なことに背を向けるような風潮においては、全体主義の恐れが大きい。なんとなれば、人々が私的領域へまっしぐらの思考を繰り返しているだけであれば、ありもしない全能性に酔って権力を好き放題する連中が社会をどんどん破壊して、自分主義を押し付けてくるからである。

 イギリスのブレグジット騒動で、3月末には、再度の国民投票を要求する人々の行進に100万人が参加した。オンラインのブレグジット撤退請願署名は580万人を超えた。「Put It to The People」(国民の声を聞け)という主張は正しい。嘘で固めたEU離脱のメリットに騙され、かつ議会が対応力を欠いているのだから国民投票をやり直せというわけだ。国民投票が再度おこなわれるかどうかはわからない。実現しないかもしれないが、人々が以前の国民投票とは異なった思考で要求するところに意義がある。

 世の中ではなにごともえいやとばかりに片付かない。自分ひとりで考えていてもすんなりと答えが出ない。思惑とは四惑である。

 各人が自分の生活だけで手いっぱいだとすれば、当然ながら天下国家のことは、手を挙げた人たちにきちんと始末をつけてもらいたい。以前、メディアが盛んに「決める政治」を標榜した。それと並行して「剛腕の政治家」を求める気風が支配した。たまたま登場した政治家が、右顧左眄せず、異論があっても、納得性がなくてもジャンジャン決めていく。なんのことはない、これがポピュリズム政治そのものである。

 はたまた多くの政治学者が二大政党賛美論をぶった。しかし、政治についても百人百様、1人ひとりの趣味嗜好が異なるのが自然である。二大政党に収斂するのは、単なる好みの問題ではなく、世論がそれなりに収斂していなければならない。いわば、相当高度な政治的素養を積んだ社会のはずである。自分の政治的主張をすることすら憚られるような風潮がないだろうか。テレビでは言葉に責任を持たないタレントもどきが好き放題喋っているが、要するに政治問題に対する懐疑心のかけらもなく、ポピュリズムのお先棒を担いでいるだけである。

ダメ押しする粘着力

 哲学者オルテガ(1883~1955)は、「大衆社会においては、政治はその日暮らしになる。方針は決まらない。社会的権力は大衆の手に握られ行使されるとき全能であるにもかかわらず、(政治は)もっとも不安定になる。未来は予知されない」(『大衆の反逆』1930)と指摘した。

 ここでいう大衆とは、「自分自身に特別な価値を与えず、自らを一個の平均的存在とみなして平然としている」人を意味する。交差点、みんなで渡れば怖くないという意識状態の人である。労働者は大衆であるとか、ハイソがエリートであるというのではない。その人がもつ本性(性根)がエリートか、大衆かという区分である。

 つまり、エリートとは自分の個性を発揮して社会のために尽力しようとする人である。損得勘定や、他者への横並びで行動する人ではない。たとえば、まともな言葉が語れない(語らない)首相や、平気で差別発言をする政治家などは、オルテガのいう(程度のよろしくない)大衆である。このような諸君がおこなう政治がポピュリズム(衆愚政治)と称されるのである。

 ポピュリズムが乗っかっている船は功利主義と新自由主義である。ポピュリズムというものは、水は低きに流れるのと同じで、容易に止めにくい。ダムを築かねばならない。資本主義は放任すれば暴威をふるう。功利主義に歯止めをかけねばならない。それが福祉社会の根源である。

 ダムを築くために、政治家には哲学が求められる。そのためには、政治家を作り出す1人ひとりが真っ当な見識を確保せねばならない。政治意識調査において、「他に人がいない」から、現内閣を支持するという人が多いらしい。質問がそもそも妥当とは思わないが、とりあえずそれは横へ置く。政界は過疎地である。人がいないのだから。しかし、本当にそうだろうか。いないという見識はどうして生まれたのか。

 これは大きな謬見である。政治家は定数存在する。人がいないからと自己納得する前に、いようがいまいが、ダメなものにはダメ押しするのが大人である。ダメ押しされれば、本人が変わる。変わらなければ交代するしかない。交代してダメならまたダメ押しする。

 掃きだめにあっても、光るものは光るが、たまたまわたしに見えていないだけである。ダメ押しを繰り返していくうちに、わたしは玉を得ることができる。いわば、まだ、できることがあるにも関わらず、できないと決めつけているに過ぎない。ポピュリズムの根源は、玉を見つけるべき人がきちんと見ていないことに尽きる。デモクラシーは試行錯誤である。粘り強くなければならない。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人