月刊ライフビジョン | 地域を生きる

横浜というトポス

薗田碩哉

 わが日の本は島国よ 朝日かがよう海に

 連なりそば立つ島々なれば あらゆる国より船こそかよえ

 筆者の故郷・横浜の市歌の冒頭の一節である。これに続いて国際港横浜が幾百、幾千の船で賑わう様が詠われている。横浜で育った子どもなら皆この歌が歌えるはずだ。小学校を卒業して70年近く経っても、筆者はこの歌をすらすらと、朗々と歌うことができる。作詞者は森林太郎、文豪鴎外先生である。子どものころはこれを「しんりんたろう」と読んでしまって、森の人がなぜ海を歌っているのか分からなかった。

 老境に達し、横浜を離れた(とは言っても隣り町に住んでいるのだが)現在、昔以上にみなとヨコハマが懐かしくなってきた。高校の同期生と合唱練習に勤しんだり、時々句会を開いたりする場所は横浜であり、それ以外にも旧友と一杯やったりもするので、月に2,3度は横浜へ行く。そして横浜という場所(トポス/ギリシャ語)が自分にとってかけがえのない意味を持っていることに気づかされるようになった。

 人間は悠久の時の流れの中で、ある特定の時間を生きているわけだが(歴史性の問題)、同時にある特定の空間を生きてもいる(場所性の問題)。いつ、どこに生きたかということ、またいつ、どこから世界を見て、世界に参加するかということがその人のあり方を規定する。西田幾多郎は「場所の論理」の重要性を指摘し、和辻哲郎は「場所性にもとづく人間把握」の視点から「風土」のもつ意味を追求した。筆者もその伝に倣って、横浜という場所性(トポス)を、ものを考える時の根拠地として生かして行きたいと思う。

 横浜という町は初めから国際都市としてスタートした。ペリーの砲艦外交によるとは言え、200年も続いた鎖国政策を放棄して国際社会に参加する窓口となったのが横浜だった。大桟橋はその象徴だし、そこから続く日本大通りの海から見て右側が日本人町、左側が外国人居留地(その後ろの丘の上は外人たちの住居が軒を並べた山手の街だ)というレイアウトも国際都市の構図になっていた。真正面には現在横浜スタジアムが鎮座する横浜公園がある。もっともこの公園は開国当初は遊郭だった。港の真正面にまず一番に設えたのが遊郭というところが何とも日本的というべきか。

 横浜には「発祥の地」というのがいろいろある。ガス灯発祥の地、日本最初のパン屋さん、同じくビール工場、洋式のホテル、テニスとスポーツクラブ、鉄道だって新橋と横浜の間で最初に開業したのである。要するに横浜という地は新しいものを何でも受け入れる進取の精神に富んでいた。いや精神というより、そういう場所性を持たざるを得なかったということだ。古いものも新しいものも、洋も和も、メリケンも中国も日本も、みんなごちゃ混ぜにして何とかうまくやって行こうという調子の良さが身上なのだ。

 横浜には近代しかない。その前は「むかし思えばとま屋の煙 ちらりほらりと立てりし所」(横浜市歌の一節)という寒村で、しかも天領だったからお城の殿様がいない。威張り散らす武士の姿を見ることはまずなかったろうし、開国後は貿易が主軸で、外国人と商人の町になった。外人も含めてだれもが一旗揚げようと出てきた一癖も二癖もあるような連中で、古い伝統には縛られず、新しもの好きの未来志向が町の風土を作っていったとみてよいだろう。

 そんな横浜の場所性がわが身の中にも貫通していると信じることにする。根拠地としてのわがふるさとが持つトポスの力を、いま生きている地域の中でも活用して、改めて地域に生きることを続けたい。この一年、子どもと青年時代=横浜時代を回顧してみて、新たなエネルギーを得た気がする。それを手に再び、風雲急を告げるわが町=町田市や多摩ニュータウンへと帰還することにしたい。

 【地域を生きる48】


薗田碩哉(そのだ せきや) 1943年、みなと横浜生まれ。日本レクリエーション協会で30年活動した後、女子短大で16年、余暇と遊びを教えていた。東京都町田市の里山で自然型幼児園を30年経営、現在は地域のNPOで遊びのまちづくりを推進中。NPOさんさんくらぶ理事長。