月刊ライフビジョン | 地域を生きる

成人式とはたちの集い

薗田碩哉

 わが成人式は1964年の1月、前の東京オリンピックの年である。会場は横浜・関内駅に近い文化体育館。大ホールには振袖姿の女の子や真新しいスーツを着込んだ男の子合わせて7千人の若者たちが集まった。今に変わらぬおなじみの風景である。当時の横浜市長は後に社会党の委員長になる飛鳥田一雄さんだった。市長からどんな話があったのか内容は憶えてはいないが、格調高かった印象は残っている。みんな静かに市長の話に聞き入り、最近の喧騒に満ちた成人式とは大違いだった。

 当時、横浜市は成人した青年たちのサークルづくりの支援をしていた。時あたかも高度成長まっしぐら、関東北部、東北や北陸地方から若者たちが大挙して京浜工業地帯に集団就職してくるという、「三丁目の夕日」の時代である。田舎から出てきて友だちもいない若者たちが、お互いにつながりあう機会を作ることが行政の務めだと考えられたのだろう。横浜市は「はたちの集い」という名前のグループ作りに取り組み、筆者も友人に誘われてその手伝いをした。住んでいた神奈川区の区役所に若者が集まり、職員とともに勧誘の手紙を6000人の新成人者全員に送った。反応があったのは1割のおよそ6千人。そのメンバーを集めて「神奈川区はたちの集い」が、その年の春ごろから活動を開始した。

「はたちの集い」には、全体の行事――総会とか講演会とか交流会とかキャンプ活動などとともに、いくつかのテーマ別のグループが設けられた。ハイキング、卓球、ダンス、音楽、演劇など、青年たちの希望をもとにした小集団を作り、日常的にはそこを拠点に活動するという仕組みである。筆者は合唱グループに入って混声合唱を楽しみ、その仲間と、当時は多くの会員を擁していた労音(勤労者音楽協議会)の例会に行ってクラシック音楽を聴いたり、農民が団結して暴虐な地主をやっつける中国仕込みのミュージカルを見たりした。「うたごえ喫茶」華やかなりし頃で、都心ばかりか横浜や川崎の繁華街にも店があって、そこではアコーディオンの伴奏でロシア民謡を合唱したものである。

 青年サークルには地付きのメンバーと地方からやってきた若者が入り混じっていて、その交わりが面白かった。言葉も違っているし、考え方や好みにも微妙なズレがあって、今で言えば異文化交流の趣きだった。溜まり場の喫茶店に夜な夜な集まってはなんだかんだと議論をし、店に備え付けの交換ノートに思いのたけを書き付けたりもした。若い男女の集まりだから当然に恋も生まれ、恋敵との闘争を経て、めでたく結ばれるカップルも少なくなかった。結婚式は会費制の人前結婚式が一般で、歌あり演芸ありの賑やかな宴が繰り広げられ、新婚旅行にはみんなのカンパが集まった。

 実は筆者もその一人である。お相手の彼女は北海道生まれ。父親は、国のエネルギー政策の転換で閉鎖された美唄炭鉱の技師だった。彼女は両親とともに神奈川県にやってきてOLをしていた。音楽グループで共に歌い、労音の例会を一緒に聴きに行ったりしているうちに親しくなった。彼女に魅かれたのは、どんな場面でも相手が年上の男性でも、臆することなく自分の意見を主張するところに感心したからである。北海道人(道産子)は男女平等の感覚が強く、古いしきたりだの因習だのに捉われるところが少ない開拓民の文化を身につけていた。それは確かに頼もしい長所だったのだが、その主張は当然連れ合いにも向けられるということに思い至らなかったのは、不覚といえば不覚だった。

 大都市に集まった若者たちのパワーは、東京から九州まで工業地帯を席巻した革新自治体の活力の源泉でもあったと思う。「幸せはおいらの願い」であり、戦争に反対し平和を守り、今は貧しく無力でも圧政を跳ね返す希望を失わなければ、明日は私たちのものだということを真正面から信じていた。日本全体が「はたちの集い」であるかのような前向きの時代がかつて確かにあったのだ。【地域を生きる46】


薗田碩哉(そのだ せきや) 1943年、みなと横浜生まれ。日本レクリエーション協会で30年活動した後、女子短大で16年、余暇と遊びを教えていた。東京都町田市の里山で自然型幼児園を30年経営、現在は地域のNPOで遊びのまちづくりを推進中。NPOさんさんくらぶ理事長。