月刊ライフビジョン | 地域を生きる

夜店の出る街

薗田碩哉

 子どものころ、夏の土曜日の暑い夜は、ことさら心躍るひと時だった。わが住む商店街の通りに、市電の終点から次の停留所あたりまでの300㍍ほどにわたって、車道と歩道の境目にまたがって夜店が軒を連ねたからである(夏だけでなく秋の終わりまでやっていた)。

 実に多種多様な店があった。木製の枠にお面やおもちゃをたくさん吊した店、引き金を引くとコルクが飛び出す鉄砲で的の人形を打ち落とす射的、駄菓子を並べた店、水あめ屋、トウモロコシを焼いて醤油のタレをべったり塗ってくれる店、手回しの機械でかき氷を作って毒々しい色のシロップをかけて出す店、屋台にぐつぐつ煮え立った鍋を載せたおでん屋――秋から冬にかけては人気のお店で、5円玉握って買いに行き、太ったおばあさんが竹の串に刺して出してくれる「つみれ」の美味しかったことを今も忘れない――。

 子ども向けばかりではない。洋服やカバンも売っていたし、幅1㍍ほどで直径20㌢ぐらいの円筒状に巻いた色とりどりの布を並べて手際よく繰り出し、客に言われた長さに切って売る布屋もあった。「工場が火事に遭って…」と言いながら前に置いた泥の山から万年筆を引き出して布で磨いて売るおじさんもいた――毎週必ずいるので、ずいぶんあちこちで火事があるんだなあと思ったものだ。寅さんでお馴染みの威勢のいい啖呵売も「バナナの叩き売り」はじめいろいろやって来て、その名セリフに聞きほれた。和服に袴をつけた「ガマの油」売りが長い刀を抜いてホラ話をしながら半紙を畳んでは切っていく…1枚が2枚、2枚が4枚、4枚が8枚…細かく切って花吹雪。その後はその切れる刀で自分の二の腕をちょっと切って血を出し、その傷がたちどころに癒える名薬=ガマの油を売るのである。

 詰将棋もあった。大きな将棋盤にコマを並べ、詰め問題を出してお客に解かせる。ところがやさしそうに見えてこれがかなりの難問。金を払って挑戦するお客は次々と負ける。それでも必ず盤面に向かって考えている客がいるのだ。しかし、毎週見ていると将棋屋とお客が交代してやっていることがわかる―あれが「サクラ」なんだと先輩が教えてくれた。  

 今から考えると、夜店は「社会」というもののミニ・モデルだったと思う。そこでは友だちや知り合いにも会うが、たくさんの見知らぬ人もやってくる。世の中ってこんなに多種多彩なヤカラで成り立っているのだということが肌で分かる。夜店の客は格別目当ての買い物があるわけではなく、夏は夕涼みがてら夜のひと時を楽しみ、秋には人恋しい気持ちを紛らしながら群衆の波の間を遊泳する。裸電球とアセチレン・ランプの頼りない光の中で夢と現実の間(アワイ)にあるわが生の感触を得る、そんな気分も確かにあった。

 地域の活性化のために商店街の復興は大切だが、商業の原点は縁日や夜店に集まる多彩な露店である。そこでは単純なモノ―カネ交換だけではない、人の目を引く工夫や面白おかしいしゃべりが重要な価値を持っていた。商業にはもともとコミュニケーションと「芸能」が必須の要素としてしっかり絡みついていたのだと思う。ほとんど詐欺師みたいな物売りや面白がらせてガセネタを売りつける口先三寸の香具師(ヤシ)のおじさん・おばさんたちをもう一度地域に取り戻したいものである。


【地域に生きる41――縁日と夜店】

 縁日は神社や寺で特別に縁のある日として祝われた日で、多くの参詣人が集まり、それを目当てにさまざまな露店が開かれた。夜店は、特に寺社に縁のない普通の町で、夏の夜などに露店を集めて客を呼び、賑わいを作り出そうとしたもの。かつてのような商店街の夜店は最近はあまり見かけない。


薗田碩哉(そのだ せきや) 1943年、みなと横浜生まれ。日本レクリエーション協会で30年活動した後、女子短大で16年、余暇と遊びを教えていた。東京都町田市の里山で自然型幼児園を30年経営、現在は地域のNPOで遊びのまちづくりを推進中。NPOさんさんくらぶ理事長。