月刊ライフビジョン | 地域を生きる

都市と農村…変わり果てたふるさと

薗田碩哉

  横浜市は現在、人口370万人、市としては大阪(270万人)をはるかに抜いて全国一のマンモス都市である。しかし、筆者が小学校で習っていまだに覚えている数字は人口95万人、大阪はもとより、名古屋や京都の後塵を拝していた。60年で4倍近くなったのは、横浜市が昔から市域が広く、437平方㌔と大阪の223平方㌔の倍近くあり、農村だった周辺部が急速に宅地化されて高度成長期の人口増をどん欲に呑み込んだからである。

 子どもの頃の横浜は2つの異なる世界があった。横浜港を囲むように広がる中心部には四方八方に路面電車が走り、ビルが立ち並び、デパートや映画館や遊園地もある都会である。他方、市電の行かない周辺部は全くの農村で、平地には畑と水田が広がり、高台はどこまでも続く雑木林だった。わが家は市電の9番、11番、12番がやってくる終点で、その周辺は賑やかな商店街だが、周りの住宅街を抜けると家はだんだんまばらになり、畑や田んぼが現れ、茅葺の農家が点在するようになる。農家の後ろの斜面には木々が生い茂り、そのふもとにはメダカが群れ集う小川が流れていた。日本中どこにでもある農村風景がそこにあり、小学校の頃は学校が終わると自転車を駆ってよく田舎へ遊びに行った。

 街の人たちが「ザイ」(漢字を当てれば「在」だろう)と呼びならわしていた田舎の横浜へ入ると、服装も違えば言葉も異なっていた。街の横浜弁は基本的には東京弁で(「そうだろう」という所を「そうじゃん」というような特有の言い回しもあったが)、時々東京都心へ出て行っても言葉の違和感はなかったが、自転車で15分も走って「ザイ」へ行くと、そこの子どもたちは「行くベイ」「するベイ」という「ベイベイ」言葉を使っていて驚かされた。これは典型的な関東方言で、東京の多摩から埼玉、さらに群馬の方へ連なる言葉づかいである。ザイの子どもたちは服装もラフだったし、川へ飛び込むときは素っ裸になったりして、都会っ子を感心させてくれもした。

 1960年ごろから田舎は急変する。次々と住宅が建ち、四角い建物の団地がつくられ、広大なニュータウンも出現した。見渡す限りの田んぼの真ん中を当時は単線だった横浜線の電車がのんびり走っていた一帯は、新幹線が開通して新横浜の駅ができ、あっという間に背の高いビル群が林立する大都会の風景に変わってしまった。新横浜の駅を通るたびに、駅の先にある淀んだ水路が、昔々筆者が遊んだ「小鮒釣りしかの川」であることを、懐かしさと一抹の寂しさとともに思い起こす。

 「都市横浜」は周りの「農村横浜」を猛烈な勢いで食いつぶし、肥大化・巨大化していった。かつて小説家の佐藤春夫が「田園の憂鬱」の舞台にした横浜市北辺の素朴な田園地帯は、日本のどこにでもある住宅の犇(ひし)めく没個性的な町になりおおせた。当時はそれが進歩であり発展であると誰もが信じて疑わなかった。しかし今になってみると、水と緑が後退した無機的な町にはかつての連帯感も絆もない。コミュニティは衰退して、にぎにぎしく執り行われた昔の祭りに代わって目立つのは大手スーパーのイベントぐらいだ。人々は新たな「都会の憂鬱」を抱えてうすぼんやりと生きている。

【地域に生きる39】【市民の森…残された田園風景】

 都市化の怪獣が食べ残した(つまりは売れ残った)ともいうべき雑木林や谷間が横浜市内のあちらこちらに見出される。市は地権者からこれらの土地を借り上げて、森の中を散策できるように簡単な整備をしたのち「市民の森」と名付けて一般に公開している。そこには半世紀前と変わらぬ風景が広がっている。

南本宿市民の森(旭区南本宿町) 新治市民の森(緑区新治町)

薗田碩哉(そのだ せきや) 1943年、みなと横浜生まれ。日本レクリエーション協会で30年活動した後、女子短大で16年、余暇と遊びを教えていた。東京都町田市の里山で自然型幼児園を30年経営、現在は地域のNPOで遊びのまちづくりを推進中。NPOさんさんくらぶ理事長。