月刊ライフビジョン | 地域を生きる

密集・雑然の商店街の活力

薗田碩哉

 筆者の生まれ故郷である横浜市神奈川区の商店街へ久しぶりに行って見た。東横線の駅と道路と街区の構造は、子どものころと少しも変わらないが、街並みは70年の時を経て一新したのは言うまでもない。昔は木造の平屋かせいぜい2階建てに過ぎなかった建物群は、軒並みヒョロヒョロののっぽビルに変わった。面白く思ったのは駅からわが家までの距離感で、子どものころは結構遠いと思っていたのに、今歩いてみるとものの数分で、ごく近い感じ。小さい子どもにとっては街が実際より大きく見えるということだろうか。

 わが家はとうの昔に引っ越し、その場所は4階建てのちっぽけなビルになっていて、1階は美容院である。しかし、左隣りの畳屋さんは今なお健在で、6階建てのビルを建ててその下に畳を並べて商っている。右隣りの食堂は姿を消して1階が駐車場のマンションだ。オーナーは食堂一家なのか、それとも売り払ってしまったのかは分からない。全体に見ると、昔の店舗の間口は変わらないまま、それぞれが上に伸びて、多種多様なビルになっている。統一も何もない。よくここまでバラバラにできるものだ、と感じるような風景である。

 電車通りは、変哲もないビル群になってしまったが、市電の元終点から白楽駅に向かって横に入る商店街には、昔の面影が色濃く残っている。戦後、道路を占拠して闇市が開かれ、それがそのまま居座って商店街になってしまった。その仲見世は通りの幅が3~4㍍しかなく、混雑すると歩くのもたいへん。今では「ふれあい通り」と命名されているが、文字通り、ふれあい一杯の通路に八百屋に肉屋、総菜屋、衣料品、雑貨、骨董屋、食堂…がひしめき合っている。子どものころはおもちゃ屋に入り込んで何も買わずに遊んでいたり、鰻屋の小父さんが店先で慣れた手つきでウナギをさばくのを飽きずに見守っていたりしたものだ。むき身の貝を縁付きの平たい板に並べて売っていた貝専門の店があったのを思い出す。いつ行ってもひたすら貝を剥いていた小母さんとその息子の姿が瞼に浮かんでくる。

 横浜市の調査によると、市内の商店街数がピークだったのは1990年ごろで400を超える商店街があったのだが、その後は減り続けて今は300を切っているらしい。商店街を押しのけたのはまずは1950年代に登場したスーパーマーケット、70年代のコンビニ、90年代になるとディスカウントストア、100円ショップ、アウトレットモールなどの新業態が客を集めるようになる。昔ながらの独立小売り型の小さな店は次第に駆逐され、周辺地域の商店街ではシャッターを下ろす店が目立ち始めた。その中でわが故郷の「六角橋商店街」は、中心部にある横浜橋商店街や「ハマのアメ横」と言われる洪福寺松原商店街と並んで「密集した雑然性」を売りに昔ながらの商店街の灯を守っている。いまでは横浜名所の1つとして観光資源化しているところが頼もしい。

 昔通った古本屋が一軒残っていた。子どものころは貸本屋へ探偵小説や時代物を毎日のように借りに行ったものだ。懐かしく書棚を物色して『ヨーロッパの都市と思想』という本を贖って帰途に就いた。

【地域に生きる38】【六角橋商店街の現在】 六角橋商店街の入口。中華料理店の左側から入る狭い通路が「ふれあい通り」。右は生家のあった表通り。写真右から2軒目の白い小ぶりのビルが生まれた場所。

 

【ふれあい通りの光景】狭い通りの両側にさまざまな店が並ぶ。日々の暮らしに必要なものは何でもそろっている。

  薗田碩哉(そのだ せきや) 1943年、みなと横浜生まれ。日本レクリエーション協会で30年活動した後、女子短大で16年、余暇と遊びを教えていた。東京都町田市の里山で自然型幼児園を30年経営、現在は地域のNPOで遊びのまちづくりを推進中。NPOさんさんくらぶ理事長。  まちだ未来の会  ブログ  https://blogs.yahoo.co.jp/machida_huture_625
           ツイッター  http://twitter.com/machida_future/