月刊ライフビジョン | 地域を生きる

生まれ育った街

薗田碩哉

 この連載も丸3年書かせていただいている。わが住むまちのあれこれの話題を、たいした脈絡もなく書き綴ってきたが、ここで視線を過去に向けて、地域に生きた自分史をしばらく振り返ってみたいと思う。生まれ育った地域と現在の地域の比較対照を試みて、変わったことや変わらぬものを見つめてみたい。
 私はもう75年も前のことになるが、横浜の下町に生まれた。江戸時代には日本橋から東海道を辿って4つ目の宿場であった神奈川宿から海を背に北へ1キロほど入ったところ。明治以降は市街地が広がり、市の中心部から四方八方へ市電が走るようになるが、その支線の終点の1つだった「六角橋」にほど近い商店街の1軒がわが生家である。

 その家は「栄泉堂」という看板を掛けた和菓子の店で、母方の祖父が横浜の老舗から暖簾分けをして開業し、最中や羊羹を商って、そこそこ評判は良かったようだ。しかし、昭和20年5月の横浜大空襲で店は灰燼に帰し(父は兵役、祖父母と母は私を連れて山梨県へ疎開していた)、祖父も戦後まもなく帰らぬ人となった。祖父の息子(私の叔父)は店を継がず、菓子屋のあった場所に父と母が粗末な家を建て、残された祖母とともに住んだ。
 父は日本専売公社に勤めて煙草や塩の販売を管理する、半分役人みたいなサラリーマンだったので、わが家は市電通りに面していても商店ではない、いわゆる仕舞屋(しもたや=商売をやめた家)だった。両隣りは畳屋と食堂、その並びには牛乳屋や家具屋や風呂桶屋などが続いていた。市電通りには停留所があり、通りの向かい側は煙草屋、八百屋、乾物屋、肉屋などが軒を揃え、通りの左右に広がる住宅街から買い物客がやってくる賑やかな一角だった。
 わが家はさまざまなお店が並ぶ通りの中で1軒だけ歯の抜けたようにひっそりとしていた。家庭はつつましい勤め人でも、子どもとしては商店街の子であり、商店の小父さん、小母さんたちの活気のある売り声を浴びて育った。隣人の畳屋は子沢山で、肝っ玉母さんのような太った小母さんは時々わが家の台所にやって来て米を借りて行ったりしていた。亭主は腕のいい職人だが飲んだくれで、昼間から酒臭い息を吐いて半裸で寝ていたのを思い出す。畳屋には小さいながら藁の圧延機械があり、それが動いて畳床を少しずつ吐き出していくのを飽かず眺めたものだ。うず高く積んである藁の山の中に潜り込んだり、職人さんが巨大な針と太い畳糸で畳床を縫う様子を見守るのが面白かった。
 商店街の人々の間には強い連帯意識があったと思う。もちろん対抗意識もあったろうが、子どもから見ると、どの店の小父さん・小母さんも自分のことを知っていて声を掛けてくれたし、お祭りや大売出しの時には総出で力を合わせて行事を盛り立てていた。町内には「子ども会」が作られていて、どこかのお店に集まって童話や漫画の幻燈会(今日のスライドショーだが、カラーではなかった)を楽しんだり、銭湯の休みの日には湯舟の上に蓋をして、そこを舞台に歌や踊りの披露があり、町内の小父さん・小母さんが世話をしていた。地域の関係は濃厚で、子どもは町内みんなの子どもたちだった。(つづく)

 …・●【横浜市の市電】●・…

 横浜市内に市電が初めて走ったのは明治37(1904)年。それから昭和47(1972)年まで約70年間、市電は“ちんちん電車”の愛称のもと、横浜市民の足として利用されてきた。現在は「市電保存館」が設けられて、各時代の車両が展示されている。


薗田碩哉(そのだ せきや) 1943年、みなと横浜生まれ。日本レクリエーション協会で30年活動した後、女子短大で16年、余暇と遊びを教えていた。東京都町田市の里山で自然型幼児園を30年経営、現在は地域のNPOで遊びのまちづくりを推進中。NPOさんさんくらぶ理事長。