月刊ライフビジョン | 論 壇

形の前に、中身をこそ

奥井禮喜

考える意義

 複雑な世間のあれやこれやについて、いちいちクビを突っ込むとろくなことにはならない。そうでなくとも日々の生業にアクセクしているのだから、精神的安定を維持するためには、直接関係がないと思われる事柄は、少々の問題を感じてもわれ関せず。大概の問題は時間が解決してくれるだろう。

 とは思いつつも、一丁前のお勤め人をやっているからには、世間と全面的没交渉というわけにはいかない。問題の核心はともかく、話題の要点くらいは知っておきたいという気風がある。職場の上司が「早く結論を言え」と吠えるのと相通ずるようである。

 魯迅さん(1881~1936)が来日留学したのは1902年で、帰国したのは09年であるが、洞察力に優れた作家は、「日本人は結論を急ぎすぎる」と喝破した。速やかに行動を起こすためには、船頭多くして船山に登るごとき議論を続けるというのは非効率である。しかし、問題の核心を十分に読み切られずに結論して行動すれば手痛い損失を被りかねない。

 魯迅さんの観察したことが裏目に出て、満州事変(1931)から日中戦争(1937)へ、さらに太平洋戦争(1941)へと暴走して、45年の敗戦に至った。今年は、明治維新以来150年で、「明治の精神に学び日本の強みを認識する」べしというその筋の見識を仄聞するが、地に足がつかぬままに一等国の座をめざして、維新以来の優れた先輩たちの熱意と善意を間違った方向へ引っ張った権力支配層の大失敗と、それを許した国民全体の大失敗をきちんと見つめなければ、明治の精神に学ぶことにはならない。

 なにしろ人間の考えは100人100様あるし、論議を尽くしたとしても、複雑な社会問題の本当の正解が見つかるとは思えない。正解ではなくても、衆議を重ねて失敗から遠ざかるべしという視点を確保せねばならない。

職場の活力

 50年前、わたしの所属していた大口径パラボラ・アンテナ機械設計職場では、図面を現場へ手渡す前に、必ず図面会議がもたれた。会議には、営業・購買から工程、機械工場、据え付け作業関連職場などなど、仕事に関連する職場から大挙参加して、それはまことに賑やかな活気溢れる会議が重ねられた。

 参加者の誰もが、自分が制作に関わる分野に関して日頃鍛えた仕事の博識を開陳して堂々たる意見表明される。圧巻であった。わたしのような末端の図面描きとしては、ただただ呆然として見とれ聞き惚れるというのみであった。

 会議は公開ディスカッションみたいなもので、たまたま通りかかった会議要員以外の関係者が飛び入りで発言することもある。いよいよ直接制作に着手する直前の一大イベントである。図面会議の高潮ぶりは、直接の関係者だけに止まらない。人々の口から口へと伝わり、事業所全体の仕事に対するモラールがますます高まるという副産物もあった。

 昨今、あちらこちらで仄聞するに、大概の仕事は担当者各位が抱え込んで、いわゆる個人商店化しているケースが多いという。まあ、ルーチンになった仕事はそれで十分に消化できるだろうが、これだけでは、消化試合であって、仕事という一種の「祭り」の価値が引き出せない。わたしの職場は単品受注開発製品の設計をする職場だから、難問奇問が排出するわけで、たまたま優秀な技術者であっても、毎度困難な課題に遭遇する。

 そうすると、今度は他事業所訪問して、お知恵拝借する。社内でふさわしい解決策が見当たらないとなれば、大学など訪問して大先生のご指導を仰ぐというのがごくごく当たり前のように繰り返された。問題解決のためにとことん工夫し追求する。このような職場の文化はすべての職場ではないけれども、人から人へと、なにかと話題が伝達していく。多くの人が集まって話し合う。まさに、仕事を通してデモクラシーの体験実習をしているようなものでもある。

主人公はいかに?

 ひさびさ昔話をしたくなったのは、昨今、「働き方改革」などが報道されるが、それにしては実際に働く方々の関心がほとんどなく、また、改革の俎上に載せられている長時間労働に対する取り組みにメリハリがない。まるで現状追認のアリバイ作りをやっているような体たらくにしか見えないからだ。

 思い起こせばWLB(ワーク・ライフ・バランス)の導入もそうだった。思うに、WLBを主導するべきは働く人自身でなければならない。そもそも、労働組合というものは、「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり、ぢっと手を見る」(石川啄木)という状態を克服するために、働く人自身が「わがライフを充実させるための働き方はいかにあるべきか」に対して取り組むために組織した。

 WLBが提唱されたのは政財界からであった。もちろん、政財界が働く人のライフがワークに蚕食されて、覚束ないライフになっているから、なんとか手助けしようと気張ったのであれば、文句はない。しかし、現実はいかがであったか。単純な話、長時間労働問題や有給休暇未取得問題を軽く撫ぜた程度で、要するに、「もっと上手な働き方をいたせ」とお説教したにすぎない。

 そこで登場する弁解は、働く人が残業したいという。有給休暇は必要ないという――という話である。なるほど、長時間労働規制を歓迎しない雰囲気が働く人にあるのは事実であろう。では、その本当の理由はなにか? 低賃金だからである。嘘だと思うなら、「残業代込みの賃金を支払うから残業するな」と指示してみればよろしい。

 「仕事中毒の人間が多い」というような経営者の発言もあった。よろしい、その方々にも、同様に残業代込みの賃金を払う。「死んでも構わない」「仕事だけが生きがい」だという人がいるのが事実ならば、後はまったくご本人の責任という個別契約をするのみだ。

 さて、そこで——賃金問題は横へ置いて、仕事に必要な「質・量」と、その仕事に携わる働く人の仕事の「質・量」の問題について研究している労使があるのだろうか? ただ丼勘定で労働時間なるものがあり、行き当たりばったりに働く人が仕事をこなす。これでは、永久に問題解決ができない。

 そもそも経営とは、衆知を結集して協働して事業を展開する。経営権、とりわけ人事権というものは、単に頭数だけではなく、仕事の「質・量」とマンパワーとを精緻丁寧、効果的に組み立てるのが仕事ではないのか。このように考えれば「働き方」改革など標榜して、働く人のみに押し付けるのではなく、経営側としての「働かせ方」改革こそが喫緊の課題ではないか。

中身と形式

 昨今、にぎにぎしく喧伝している「働き方」改革には、まるで中身がない。外見だけを整えても中身が必然的にそれに適合するものではない。

 夏目漱石さん(1867~1916)の有名な講演に「中身と形式」(1911)というものがある。いわく、概して日本人は形式(すなわち前述の結論とも同じ)ばかり追いかける。本当に大事なことは中味である。中身の検討をうっちゃらかしておいて、形式ばかり整えても何の意味もない。形式は中味のための形式であって、形式そのものに中身があるのではない。

 こんな言葉もある。「穂高の美しい景色は1枚いちまいの葉っぱが作っている」。働く人1人ひとりの働き方が惨たんたる状態にある。1枚いちまいの葉っぱからずんずん離れて、はるか彼方から職場の景色を眺めた場合、果たして穂高のように美しい景色として映ずるであろうか。

 ここで経営者は「立派な利益を上げている」と抗弁するだろう。穂高に相当するのは立派な収益だというわけだ。なるほど、高収益を上げているのだから、働く人1人ひとりが惨たんたる状態であるのは構わないと考えられなくもない。

 しかし、人の手を経ずに仕事が完結するものではない。「よい働き方からよい製品が生まれる」という。働く行為のプロセスとしてみれば、「悪い働き方からよい製品が生まれる」ことになっている。ここでいう「悪い働き方」とは、人間として見た場合に悪いのである。もし、働き手が機械やロボットであれば「よい働き方」となる。

 いま問われているわが国の「働き方」なるものは、果たして、人間から見て「よい働き方」がなされているのかどうかにこそ、問題の核心がある。思うに、政財界には、このような思考形態は存在しないらしい。

 そうであれば、やはり、ここは働く人と組合の出番である。WLBから「働き方改革」に至るまで、働く人と組合の出番がいかにも少なかった。組合の仕事の1つは賃上げであるが、名目賃上げだけが活動分野ではない。残業720時間は、真っ当な年間労働時間1800時間に対して40%増の2,520時間になる。こんなものは、法律で決定するような価値がない。
 労働組合という形式の中身をこそ、今年はみんなで考えたい。

 わたしの尊敬する技術者の言葉である。
「技術的に優れている機械の概観は美しい」


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人