月刊ライフビジョン | 家元登場

18世紀のパリは

奥井礼喜
風波の時

  偉大な思想家J・J・ルソー(1712~1778)は『社会契約論』『エミール』(1762)を出版した後、宗教問題で権力者に追われて、スイスに逃れた。転々して、パリに戻られるまでに8年間もかかった。しかし、かつての友人たちによる攻撃に心休まらず、神経をすり減らす日々が続いた。ようやく精神的風波の時を乗り越えて書き記したのが『孤独な散歩者の夢想』(1778)である。出版されたのはルソーの死後の1782年であった。その中に1776年10月24日の災難が記されている。その日、午後の散歩に出たルソーは、メルニモンタンの高台に上り、ようやく訪れた安らかな心地で帰途についた。ハッとして避ける間もなく、大きなデンマーク犬が飛びかかってきて、上顎を歩道に叩きつけて倒れた。犬は四輪馬車の先供の役目である。猛烈な勢いで走ってきて正面衝突したのだから堪らない。幸い、御者が馬車を止めたので辛くも命を守られたのであった。

18世紀のパリは

 18世紀のパリは、「なんでも飲み込む」勢いでおよそ眠らない町であったそうだ。大金持ちが四頭立ての馬車で町中を駆け抜ける。快楽塗れの人々の対面には貧困と苦悩を道連れにした圧倒的多数の人々が蠢いている。貧しい人々の楽しみは1週間に1度、ぶっ倒れるまで飲む安いブランデーである。これがまたご親切にも水が混ぜられており、なぜか唐辛子を効かして味付けした代物だ。パリは欧州文化の中心であったから、インテリがわんさか集まっておしゃべりが絶えない。パリっ子は富めるのも貧しいのもとにかくおしゃべりを止めるのは睡眠時間だけという有様で、おしゃべりが嵩じて喧嘩になると拳骨騒動を引き起こして、さらにまたおしゃべりに戻るという塩梅だった。後々数々の映画の名場面を提供するセーヌ川はすでに汚れに汚れていて、「セーヌ川は天使の尻より出る」と表現されていた。快楽と絶望が支配する町…フランス革命前のパリは凄まじかったらしい。

貧困と喧騒

 ルソーを信奉し、しばしば晩年のルソーを訪問したL・S・メルシェ(1740~1814)の『十八世紀パリ生活誌』(1782~1788)を読むと、200年以上も前の、しかも異国の生活者が現実に生きて喧噪を生み出しているような心地がする。メルシェはパリが「目をそむけたくなるような貧困」に支配されていると記す。伝染病もある。伝染病で死んだ人の古着(ボロ)を消毒せずそのまま売る。人々は蚤や南京虫と暮らしている。焼肉で有名な通りでは、その匂いをおかずにして味のないパンを食べる。文化都市ではあるが、パンにありつけない文人墨客も掃いて捨てるほどいた。そんな悲惨の町を大金持ちの大きな馬車が走る。以前は馬車の前を2人の韋駄天が「ご用心、ご用心」と先触れしたのだが、ルソーが事故に遭った当時は犬が先供して、人々を蹴散らかしていたのである。まだ、パリに歩道はなかった。公道ではあるが、かくして実質的公道の所有者は馬車で行き交う人々だ。

おしゃべりこそすべて

 『十八世紀パリ生活誌』の原題は『タブロー・ド・パリ』(LE TABLEAU DE PARIS)である。ルソーを信奉し、啓蒙時代の申し子のようなメルシェは、パリに視点を据えて、習俗・思想・人間精神をタブロー(生活情景)として画家のように素描することに努めた。――わたしは人間の諸行動を笑わず嘆かず呪詛もせず、ただ理解することにひたすら努めた(スピノザ)――という言葉が彷彿する。しかも、それは諦念・諦観ではない。昔を懐かしむのではなく、いま、同時代を生きている同胞と意思疎通することこそ大切だという心構えである。メルシェは現実の絶望的状況を描きつつも――植物の芽は長い間踏みつけられていても時と共に成長し、伸び、育っていく――と書いた。なるほど、メルシェが最初の出版をしてから7年後にフランス革命が勃発した。パリっ子の舌はいかなる権力も抑え込むことができなかったらしい。おしゃべりこそすべての源泉かも!