月刊ライフビジョン | 論 壇

「1強」という幻覚を断ち切るべし

奥井禮喜

憲法改正の発議?

 衆議院全465議席、与党の自民党284議席+公明党29議席で合計313議席、野党は130議席である。

 参議院全242議席、与党の自民党(+こころ2)125議席、公明党25議席で合計150議席、野党は92議席である。

 憲法改正の発議は、日本国憲法の第96条において――この憲法の改正は、各議院の総議員の2/3以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする――と定められている。

 単純に与党・野党の関係だけで上記要件に当てはめてみると、
 衆議院 465×2/3=310議席——与党313議席
 参議院 242×2/3=162議席——与党150議席
 衆議院においては、改憲発議が可能な議員数を与党が確保している。

 現段階で、世論調査では憲法改正に反対する国民のほうが多数派であるが、なにしろ改憲に前後の見境がない安倍氏が自民党の領袖であるから、ジャーナリズムが恰好の話題にするわけだ。

民意反映しない小選挙区制

 本稿では、改憲論議自体を問題にしない。憲法を変えるか変えないかというのは、国の根幹であるから改憲論議は大切であるが、その前に、わが国の政治的状況について考えなければならない問題がある、というのが筆者の認識である。それは、外でもない。いわゆる「1強」なるものの中身についてである。

 たしかに、自民党だけで衆議院の過半数(233議席)を51議席、参議院の過半数(121議席)を4議席上回っているのだから1強には違いがない。ただし、数字だけを眺めていると大切な事実を見過ごしやすい。

 自民党の小選挙区得票率は47.81%で215議席獲得した。全議席に対しては74.39%を占める。半分以下の得票率で議席は7割を超えるというのは、小選挙区選挙制度の欠陥である。せっかく投票したのに死に票がたくさん出ている。いわゆる1票の格差以上に大きな問題である。

 今回衆議院議員選挙の投票率は53.68%であった。おおざっぱにいって、有権者の1/2が選挙に参加しなかった。なぜ参加しないのか? 投票したい候補者がいなかったとか、選挙や政治に興味がないというような消極的な理由が考えられる。また、解散のまともな理由がない選挙に対する抗議として棄権したとすれば、効果性はともかく、積極的棄権であり反与党の意思表示である。

 全国民が直接参加して政治的決定をできないから、代議制度を採用している。国民が選挙した代議士によって政治的決定をするのだから、国民が選挙に参加するのが代議制度の前提である。選挙に参加しない国民が半分程度いるというのは、事の本質からして代議制度自体の存立が危ぶまれる事態だ。

 かつて封建時代には、国民が参加して政治をおこなうという思想がなかった。当時は、国民は政治的主体ではなく、客体であった。ごく一部の権力者が政治をおこない、国民はそれをひたすら受け入れるだけの存在だった。

「由らしむべし、知らしむべからず」というが、権力者がおこなう政治に黙って従えというのであった。なんとなれば、多数の国民が政治に参加すれば、権力者たちが容易に甘い蜜を吸い続けられないからである。

 こんな考え方がデモクラシーでないことくらいは誰でもわかる。かつて人々は自由に意見を主張できなかった。いま、人々は自由に意見を主張できるのであるが、主張するべき見識がないのであろうか。政治に期待ができない、期待しないのは、いかなる理由があるにせよ、自分と政治が無関係なのである。いずれにせよ、選挙によって「民意が示された」とはいえない。

 国民の半分が実質的に! 政治の客体となっている。いろいろ理屈をつけることができるとしても、これがデモクラシーを掲げた日本の現実の政治状況である。デモクラシーの政治家であれば事の深刻さを深く認識するだろう。一方、さして痛痒を感じない政治家であれば、その体質が封建時代の権力者と相通ずるという証明である。実際、自民党議員は過去になんども、「投票率が上がらないほうがいい」と口走っている。

金正恩 ≒ 安倍晋三

 今回の選挙で、自民党が北朝鮮による危機を大声疾呼した。危機意識が与党に対する追い風になったという見方もある。しかし、38度線で北朝鮮と接し、万一戦端が開かれた場合には、ただちに首都ソウルで1,000万人に惨禍が及ぶとされる韓国では「国難騒動」がない!

 権力体制維持に躍起の金正恩が対米戦争の脚本を書き、艱難辛苦に耐えようと国民の一致結束を強圧的に構築しているが、安倍氏の脚本も、まったくそれと同じである。安倍氏に対して「お前が国難だ」と野次が飛ぶが、然りしかりなのであって、権力者が国難を吠え立てるのは体制崩壊の危機感を抱くからだ。

 安倍氏がどこまで深刻に日本的政情を理解しているかはわからないが、客観的には日本国の与党体制は、北朝鮮の体制とよく似ている。権力者が国難などを持ち出すのは、間違いなく権力体制を崩すべく社会の底流が動きつつあるからだ。安倍氏が本当に事態を読んでいるとすれば、次の議会は慎重運転を心掛けざるをえない。

 筆者の愚見的予想である。
 たぶん安倍氏は事の深刻さが理解できていない。だから、ますます暴走に拍車がかかる可能性が高い。数があるのだから、やろうとすればやれなくはない。ただし、それは選挙制度と野党分裂選挙のお陰で獲得した砂上の楼閣のようなものである。

 わが国は戦後にデモクラシーを手にしたが、国民が主体的にデモクラシーを作ってきたのではない。敗戦までは強権弾圧されたからだ。デモクラシーがとりあえず強権弾圧を取り除いた。国民にデモクラシーの理解が容易に前進しないのは遺憾ではあるが、強権的暴走政治へ傾斜すれば、国民はデモクラシーの真価に覚醒するだろう。

 少なくとも、方向性としては、安倍自民党は知らずしらず「1960年反安保闘争」の再現の方向へ傾斜しつつある。本当に国の安定を確立しようとする政治家は国論を2分するような政情を招かないように気を配る。しかし、安倍氏はそのような真っ当な政治的センスを持ち合わせていない。周辺もまた、安倍氏に諫言するどころか、囃し立てる茶坊主ばかりである。それがモリ・カケ騒動として持ち上がったのである。

選挙結果をリアルに考える

 国民が、1つの舟に乗っている。舵はある目的地をめざしている。国民が目的地をめざしているのであれば、目的地へ到達するべく、誰もがオールを握って漕ぐであろう。しかし、半分は、自分は「関係ない」と思っている。すなわち船頭(政治家)が語る目的地を認めていないことになる。このまま推移すれば、いま、漕いでいる人がくたびれてオールを手放すかもしれない——と考えれば、オールを握る人を増やす必要がある。

 政治家を船頭にたとえたのは、彼らは議会で審議するけれども、直接政治を推進するのではない。企業でいえば経営者であり、商品を設計するにせよ、工作するにせよ、販売するにせよ、実際の仕事は彼ら以外の人々がおこなう。つまり、政治家は国が遭遇するさまざまの事情について、可能な限り事実を正確に把握し、それにふさわしい対応策をひねり出さなければならない。

 昨今、リアルという言葉がよく使われるが、社会の現状をリアルに認識することが大切である。ここまでの話から引けば、自民党は7割の議席を獲得したけれども、直接支持した人は有権者の1/4に過ぎないというのが事実である。その他は3割の議席しかないけれども、こちらに投票した有権者も1/4であったのが事実である。リアルとはこういうことである。

 同じ1/4の得票なのに議席が7割と3割の2つのリアルな事実を生み出すのは選挙制度のゆえであって、民意が正確に反映されていないというリアルな事実が大きな問題を提供している次第である。

権力奪取が政治の目的ではない

 さて、選挙のたびに「政権の受け皿」論が登場する。1強に好き放題させないために、怪しからんことがあれば、国民が直ちに政権交代をさせられるように、野党は常に政権の受け皿たれというわけだ。

 この考え方自体はリアルであろうか? たまたま、2009年に民主党が政権に就いたので、二大政党時代が到来したという論調も賑やかだった。ところが、民主党政権がパッとせず、自民党が政権に復帰した。その後、民主党が退潮化を辿り、野党再編して民進党を結成したのであるが、これまた、今回選挙で衆議院民進党については解党的分裂をした。

 明らかにドタバタ政変であるが、前述のように、1強といっても、大ざっぱに半分は野党が得票しているのだから、「受け皿」を用意すれば、非自民党の票をかき集められると考えたのである。だから、野党に政権の受け皿たれとぶっているジャーナリズムが、政変の当事者の失敗をもってボロクソいうとすれば、ジャーナリズムの煽動に乗せられて悪戦苦闘した当事者が気の毒でもある。

 二大政党が誕生すれは現状の政治よりもよくなるだろうか? まず、目下ざっと半分の政治的客体となっている人々がそれを歓迎して政治に参加しようと考えるだろうか? 筆者は、ほとんど変わらないと思う。なんとなれば、二大政党ではないから国民が政治的客体化しているのではなくて、政治が自分と無関係だと思うから積極的・消極的に参加しないのである。

 つまり、政治を動かす政党の関係・構造が気に入らないのではない。いわば、レストランで扱うさまざまのメニューに食欲をそそられないのであるし、料理の取り扱いの乱暴さが不愉快で来店しないのである。

 なぜだろうか? 職業政治家諸君が選挙というイベントを自分のために成功(=就職)すれば、後はのほほんと過ごしている(ように国民に見られている)からである。そればかりか、多くの政治家がパブリック・サーバントたることを失念し、まさに上から視線のでかい態度を押し出している。

 また、権力奪取と維持ばかりに熱心である。もちろん、政党であるから政権をめざさないのはナンセンスである。しかし、政権奪取しても、国民を客体化するような政治をやったのでは、国民に背中を向けられるのがオチだ。政治権力は、政治家の趣味嗜好を満足させるためのものではない。国民が、「日本人でよかった」、自分も1人の国民として「誇り」を持とうという方向へ政治を進めねばならない。

 デモクラシー国家を前提すれば、「1強」は幻覚に過ぎない。戦後70余年の政治は、極論すれば常に幻覚に左右されてきた。デモクラシーの精神をしっかり掲げて歩まねばならない。幻覚とは、要するにデモクラシーが未熟のために発生した現象なのであり、まさに非リアルなのである。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人