月刊ライフビジョン | 論 壇

まだ戦後? もう戦前?

奥井禮喜
戦争を知る世代

 別の時代を知っている人は、いまの時代に違和感をもつに違いない。

 別の時代というのは、たとえば1941年からの10年間を体験した人であるとか、わたしであれば少し世間がわかるようになった54年からの10年間といまを比較して考えるのである。もちろん、ある時代を時間的に共有しているからといって、すべての人が同じように考えるわけではない。

 それでも、戦争という歴史的時間を同時代的に生きた人々は、戦争の非人間性や不条理についてお互いに重なり合う考えが多い。戦争が人々の個人的生活を破壊することにおいては、極めて平等な! 結果を作るからである。

 豪邸に住んでいた人も借家住まいの人も焼け跡に佇むときの気持ちはほとんど同じである。空襲で、辛くも生命だけは助かった。亡くなった人のことを思えばせっかく生き残ったのに死んだほうがマシだったなどとはいわない。

 生活的立場がさまざまであっても、戦争の非人間性や不条理について深く思いを馳せたのである。1945年8月の敗戦後は、日本人がもっとも相身互いの心地で身を寄せ合った時期であった。そして、60年代半ば辺りまでは、人々が平和という言葉を極めて大切に扱った時代であった。

 いまは危機の時代であろう

 人類が遭遇する危機とはなにか?

 天変地異は人間が起こすのではないから横へ置く。そうすると人類の危機の核心は戦争である。庶民が戦争について考え、語り合うことは多くない。戦争体験者の多くは思い出すのも辛いし、戦争を知らない世代にとっては、ほとんど別世界の話である。戦争にロマンを感ずるのは無知の典型である。

 語り部として戦争体験を話す方々は、楽しいから話すのではない。自分が知っている時代を、いまの知らない世代に伝えることによって、惨禍の再来を防ぎたいからである。かつても、これからもそうだが、庶民が戦争を明確に認識するのは、すでに戦争の渦中である。これが問題だ。

 ソウルの7割近い人々が戦争など起こらないと考え、また、それどころか日々の生活費獲得に走り回っている。危機を意識する人でも、核兵器をもつ38度線の向こうを考えると、思考停止になるというのである。それはそうだ。なにが、どのように起こるのか、誰にもわからない。わからないことの対策をどうして立てればよろしいか。

 わが国においても、品位と節操を欠く政府・与党の政治家が「国民の安全を守る」と大見得を切るが、正しくは、なにも起こらないうちは安全だという言葉を騙っているに過ぎない。なにしろ戦争は相手があることで、相手のオツムの中身や手の内を事前に知ることができない。国民を守ると大言壮語する輩にはなんら確証も自信もない。

 もし戦争が始まれば、徹底的に敵の悪口雑言罵倒キャンペーンで、悪いのは全部相手のせいにできる。ちなみに、1931年に満州事変を起こして以来、45年の敗戦まで、品のない日本語が新聞・ラジオから流され続け、以て国民諸兄を煽動し続けたのであった。いわく、暴虐支那を膺懲せよ、土匪を殲滅せよ、鬼畜米英——果ては一億玉砕だ。

 政府・与党が戦争を起こさない努力をしているだろうか? わたしには、トランプを煽り、北朝鮮を自爆に追い込むことだけに熱心であるようにしか思えない。おそらく戦争は起こらないと見ているか、そうでなければ好戦的政治を展開しているようにみえる。

危機を弄ぶ政治家

 1941年4月29日で衆議院議員は任期満了であった。すでに大政翼賛会を立ち上げて挙国一致を喧伝これ努めていたが、自分党=自民党のご先祖連中が多い。誰が主導権を握るかでもめ、いや、それ以上になにをやればよろしいか。容易にまとまらない。国民は満州事変以来、生活困窮の度合いを深めておりご機嫌よろしからず。ここで選挙をやったらボロクソの批判が出るのが怖い。そこで近衛文麿内閣は特別法で議員任期を1年延長した。

 10月18日、対米英開戦派の東条英機内閣が発足した。開戦へ一目散だ。12月8日、ついに開戦、真珠湾攻撃での大戦果が報じられるや、国論は一挙盛り上がる。夢見るごとく、熱に浮かされるがごとくである。

 好機到来とばかり、東条首相は年明けから準備して4月30日投票の衆議院議員選挙に打って出た。悪名高い第21回衆議院議員選挙である。

 政府の意を呈した翼賛政治体制協議会なる軍・大政翼賛会・財界・議会などのボスを担いだ組織を作り、これが議員定数466人と同数の候補者を推薦する。選挙活動実働部隊は内務省・警察・軍である。

 国民学校では教師が生徒に「翼賛政治体制協議会の候補者に投票しないのは非国民」だと吹き込む。県知事が推薦状を発する。向こう三軒両隣を回覧板で宣伝、買収・戸別訪問は当たり前。一方で非推薦候補を猛烈妨害した。

 勝って当然の選挙であったが、翼賛推薦候補は381名、非推薦議員は大善戦して85名が当選した。圧倒的な言論封殺弾圧下の選挙であったが、非推薦議員の総得票率34.9%で、東条内閣に対して一矢報いたのである。

 今回、「国難突破」選挙と安倍氏は名付けたらしいが、正しくは「安倍難突破」選挙である。モリ・カケ蕎麦食い逃げ解散だ。「自民党=自分党=安倍」の構図がこのくらい明確に出た選挙はない。北朝鮮危機が唱えられるなかでの選挙に対する批判があるが、かの大東亜戦争真っただ中でも前述のような事態であった。むしろ、危機は好機到来と考えているに違いない。

動物以下の動物=人間を破壊する人間

 さて、北朝鮮問題に関して、安倍政府・与党は本気で問題解決を図ろうとしているのだろうか。

 北朝鮮の本音が自爆にないのは明らかである。依然朝鮮戦争が終わっていないから、それを終わらせて、アメリカとの尋常な関係を作りたいのも明白だ。ところが、一向に話が進まないから、挑発恫喝を手段とする。

 それは、うんざりするような方法だが、北朝鮮が批判するように核保有国が好き放題やったではないか。自分たちも自衛のために核兵器を開発する自由があるというのは理屈としては否定できない。

 核兵器を持たない国々が挙って「核兵器禁止条約」を締結した。少なくとも、その平和軍縮の方向が正しいことは認めざるをえないのに、核保有国は自国の都合だけを掲げて参加しようとしない——おまけに日本までもが。持っている国々が身勝手だという事実はいかに抗弁しようとも正当化はできない。

 さらに一歩進めて考えよう。

 いかに正義を叫ぼうとも、武力で決着する戦争を正当化すれば、思想的には弱肉強食であり、暴力の正当化であり、人間としての知的崩壊に通ずる。しばしば弱肉強食を動物的行為だというが、動物は同じ種同士で殺戮などやらない。人間だけが戦争する動物なのであり、戦争は人間以外の動物以下の動物に人間を貶めるのである。

 先に、41年からの10年間を体験した世代に触れた。かの方々は、二度と戦争をやってはならないと考えた。かの世代は、戦争前から戦争反対であったとしても、容易に声を挙げられない時代を生きていた。いま、自由に声を挙げられる時代に生きる者が、人類が遭遇する危機を無視するわけにはいかない。

 大昔には、(殺し合いという面を見ずに指摘すれば)戦争は限りなく人と人との喧嘩に近かったであろう。しかし、現代の戦争は、破壊と殺戮をおこなう以前にすでに人間を機械に貶めている。

 核兵器を造ったのは人間である。しかし、核兵器は人間を機械にする。核兵器自体は所詮モノであるにも関わらず、人間は、核兵器があれば安全だと考える。そうだろうか? 仮に北朝鮮が10発程度しか核兵器を持たないとして、一方のアメリカは7,000発持っているとしても、北朝鮮が攻撃するのであれば、アメリカは十分なダメージを食らうだろう。

 つまり、圧倒的核兵器を持てば相手が恐れをなして挑戦してこないという理論? を考える人間の思考は核兵器を絶対として、人間がなにをやらかすかを論外にしている点において、巨大な破壊力に対する知性を喪失しているのであり、すなわち(真っ当に思考しないのだから)機械になっている次第だ。

 破壊力によって平和を作られると考えるのは果たして正当だろうか? それは「破壊・殺戮力A対破壊・殺戮力B」の関係のみを引き出して、あたかも力士が土俵上で勝負を決するがごとくに単純化して考えている点において、機械的思考である。なんとなれば破壊・殺戮力の惨禍を被るのは人間なのである。

 戦争が人間対人間の間でおこなわれる以上、人間になにが起こるか考えず、破壊・殺戮力の数字を計算するのは機械に過ぎない。

 破壊力というものは、いかに巨大であろうとも、なにも生み出さない。1本の小刀でこけしを作るささやかな楽しみと比較しても、破壊力はその足許にも及ばない。破壊力が生産する! のは、人間社会の破壊である。すなわち人間の否定であって、すなわち人間を抹殺するのであって、そして、誰もいなくなったというだけの話でしかない。

後世代にツケ送りする自民党の体質

 安倍内閣になってからの議会や、政府要人の記者会見の最大特徴は「空虚な言葉」に尽きる。質問に対する真っ当な答弁がほとんどない。おうむ返し、スリカエ、無視、はぐらかし、欺瞞——さらに、いま、きちんと考えて処理しなければならないことをすべて先送りする。官僚的機械である。

 財政再建も、社会保障問題も、原発問題も、面倒なことはすべて先送りである。そして、それらの問題は戦後のほとんどを政権政党として政治を担ってきた自民党が作り出したものである。かかる厄介な問題山積する政治において、自民党的でない政治(=先送りしない)をするのは至難である。

 先の民主党政権は確かに未熟ではあったが、積年の病弊に挑戦しようとしたのも事実である。残念ながら、じっくり取り組む以前に降板した。震災発生という不遇にも見舞われた。いずれにせよ、どんな政党が政治を担おうとも、先送り的自民党政治以外の政治をやろうとすれば、国民の理解と協力が不可欠だ。

 国民諸兄におかれては、そこを重々承知しておかれないと、自民党以外には選択肢がないことになる。その結果は将来に向けてどんどんツケ回しするのであるから、いまや、将来世代の怨嗟が聞こえてくる。

 政党が権力奪取とそれの保持に鎬を削るのは仕方がない。政治とは権力だからである。政権奪取しなければ優秀な官僚組織の全面的支援は得られない。同時に、官僚組織が真に国民を向いて活動するかどうかを真剣真摯に見据えた政党政治でなければ、いままでの自民党政治となんら変わらない。見方によれば、権力とは官僚機構と官僚政治であるともいえるからだ。

 権力は大きい。国民個人は極めて非力であり、多数に対してはほとんど存在感がないが、にも関わらず、国を作っているのは非力な個人である。非力な個人であっても、人々が一斉に権力という貯金を引き出そうとするならば、支配層はお手上げにならざるをえない。なんとなれば、権力の権力たる所以は国民の信頼にこそあるからだ。

 消費税の使い道が大きな国民的課題だから選挙で問う、というような詭弁を弄する首相は失格である。なぜなら、使い道を国民の直観的センスに問うのではなく、議会で各方面から議論するのが当然だからである。

 政治とは政局だ、と確信して右往左往するのが政治家ならぬ政局屋である。いかに大きな争点があろうとも、選挙戦ですべてが決せられるわけではない。選挙の洗礼を受ければすべてOKと白を切るのが政局屋である。政局屋は政治家ではないことに最大の注意が必要だ。

 少し前のように「決める政治」であるとか、「二大政党」であるとか、意味のない言葉に踊ってはならない。議会は、大政党の意見でなくても正論が幅を効かせなければならない。そのためには、国民1人ひとりが目撃者であり、推進者であることを再認識しなければならない。


奥井禮喜

有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家 OnLineJournalライフビジョン発行人