月刊ライフビジョン | ヘッドライン

人生と仕事を繋ぐ労働組合への提言(下)

ライフビジョン学会

  組合らしい組合を作る提言  
(前号ヘッドライン「人生と仕事を繋ぐ労働組合への提言(上)」の続きで す)

人間観

 なにごとによらず社会問題を検討して対処するためには、前提として、
 a 「人間とはなにか」を考え、規定して着手するべきである。
 b 社会問題の対象は人間であるから、人間という主体が「いかにあるか」、「いかにあるべきか」を追求するべきである。
 そこで、論者としてのわたしは――人間の生き方として、生物的要求のみに生きたくはない――ことを前提として以下の論を進めたい。
 誰でも自由に生きたいはずだ。人が「自由に生きたい」という場合の自由とはなんだろうか?

 第一に、それは、自分が自分らしくありたいことであろう。自分らしくあるとは、自分の個性(=天分 genius)を発揮している状態である。個性は社会において発揮されるのだから、個性が社会的に認知されている。逆にいえば、自分の個性が社会的に認知されるように生きたいのである。
 わたしはこれを「社会的自我」と呼ぶ。個性、つまり自我を出発点と考え、自我的に生きる(=自由)ことが個性の発揮であり、個性は社会においてこそ輝くのだから、自分が社会的存在をめざす自我の在り方であると規定する。

 第二に、人は、自分自身によって自分を作っている。自分が自分を作る=自分が自分の人生を作っていると考えるとき、人は元気であり、自由である。そのような人生をめざすためには、心構えはポジティブ(positive)であらねばならない。ポジティブとは「絶対元気」をめざすのである。
 とかく、人は社会における元気量を固定的に考えやすい。社会の元気量を固定するから各人の元気がゼロサム関係に見える。そこで「他人の不幸はわたしの幸せ」という気風が支配する。これをわたしは「相対元気」と呼ぶ。相対元気が支配する社会は元気の奪い合いだから本質的に非元気な社会である。
 絶対元気の立場は「自分が追い求めるものはなにか」を考えて、その実現に向かって尽力しようという目的追求型の人間観である。つまり、「人間は自分がなろうとするものになる」という西洋哲学的思想と軌を一にする。
 各人が自分の元気を追求するのだから、他者の元気を奪うのではない。他者を羨んだり、妬ましく思うこともない。誰もが同じように所有できるから、社会の元気の全体量が増える。活気のある社会が作られる。

 第三に、自由に生きるためには、常に自分の知見を磨き続けたい。「わたしは学びつつ老いていく」という。常に変化し、移ろう世界において、自由な生き方を追求するためには学び続けることが不可欠である。学ぶ態度を停止すれば必然的に「自分の」人生から遠のくであろう。

 要約すると、わたしが求める人間は次の3点である。
 ① 個性を発揮=社会的自我を求めて生きる。
 ② 「絶対元気」=ポジティブな心構えで生きる。
 ③ どこまでも自分を育てるために学び続ける。

いまの社会的全体状況

 いまの日本的社会状況を一括りに眺めると、アパシー(apathy)が支配しているように見える。アパシーとはたとえば、五無主義——無関心・無気力・無感動・無自覚・無責任である。(これは1980年代から指摘されている)
 それは自分が自分に対して五無なのであり、自分が社会に対して五無である。換言すれば、自我が希薄であり、必然的に社会的関係性が希薄である。われわれが求める人間観はその対極にある。

 アパシーの気風において、人々は、社会問題=社会的関係における不都合を私的に解決しようとする。たとえば問題があっても見ない。見ないのだから問題が存在しない。しかしながら現実に問題があるのだから、実際の問題解決にはならない。
 人々がもっとも困窮するのは貧困である。われわれは敗戦後のような絶対的貧困状態にはない。その時代は皆が「食べるための賃金をよこせ」と叫んだのである。なるほど、いまはいろいろ社会問題があっても絶対的貧困状態ではない。では、絶対的貧困状態を克服したらすべてよろしいのだろうか?

 いや、絶対的貧困状態ではないから、人々が「さほど社会に問題はない」と考えるのであれば、依然として絶対的貧困に呪縛されている。なんとなれば絶対的貧困の克服とは、生物的要求に他ならないからだ。生物的要求の切迫性がないから社会に目をつむるのであれば、その人生における価値観は生物的価値観に止まっているのである。

 わたしは――生物的要求のみに生きたくはない――と前述した。生物的価値観に停頓するのであれば、社会にいかに問題・課題が山積していても、それを解決する行動は発生しない。そのような社会、アパシーが支配する社会においては、国・会社・組合=組織があっても、それらは組織された無責任体制になりやすい。これではデモクラシーの社会といえない。

自己組織性

 われわれが生存する世界は、まさしく無常(panta rhei)である。世界は森羅万象悉く変化して止まらない。人は、常に変化する世界に対応して生きなければならない。
 人間の行動(Behavior)は主体(Person)と環境(Situation)の関数(function)である。古今東西、人間は、環境変化の影響を受け止め、あるいは環境に働きかけて生き続けてきた。もし、環境が永遠不滅に変化しなかったら、当然ながら今日のような世界も人間も存在しなかった。
 そこで前記を公式化すると、B=f(P,S)

 ある組合活動家が、「ぼくが一所懸命に新聞を作っているのに、組合員がちゃんと読んでくれない」とぼやいた。それを聞いた彼の先輩は「他人のせいにするなよ、自分が変わらなくちゃあ」と示唆した。上記P、Sの関係において、P(自分)が変われば、それまでのPとSの関係は変わる。卓見である。素晴らしい先輩である。

 ここに自己組織性という言葉がある。自己組織性とは「環境変化の有無に関わらず主体が自力で自らの構造を変える」ことをいう。人が育つというのは学ぶことであり、学ぶことによって自分を変えるのである。先輩が、自己組織性という言葉を知っていなかったとしても、問題の本質をきっちり把握していた。
 そこで前述の公式を、B=f(P→S)と置こう。

 すべての動物は環境において生息する。動物にとっての世界は彼が直接関わる環境世界である。ただし、動物は環境を住みやすくするための行動を起こさない。この公式は人間の専売特許である。
 これをさらに展開すると、人が生きているということは、自力で自己を再生産することであり、以て環境に働きかけて、不都合を解決していく営みであるといえるだろう。

「働き方」の主人公は誰か?

 「働き方」を論ずるとすれば、まず、働く主人公たる労働者自身でなければならない。納得づく働くためには、労働者が自分の仕事価値に見合う賃金を雇用者との間で締結する必要がある。八百屋さんが大根を売るのに、値段を自分でつけず、お客さま次第にするようなことはない。
 もちろん、労働者の仕事を買う側の都合もあるから、売り手側の言い値で必ず売れるというものではないが、売値を決めるのは労働者自身である。昨今、売り手側が元気なく、買い手側が好き放題に仕事価値を決めているようでもあるが、賃金は雇用契約の核心であるから、賃金交渉について考えておきたい。

 経年的に見ると賃金決定には、上げる、変えない、下げる、の3側面がある。組合からして賃上げを攻勢とすれば、変えないのは維持であり、下げるのは守勢である。ここで大切なことは、攻勢・維持・守勢のいずれであっても、組合が賃金決定の不可欠のプレーヤーだということである。

 敗戦まで、雇用者は被雇用者(労働者)を「働かせてやる」のであって、労働者は「働かせていただく」のであった。働かせていただくのだから、賃金がいくらほしいなどと要求することは論外である。労働者は働かせていただく恩義に報いるためにひたすら働かねばならない。雇用者が、その働きぶりを見て「愛い奴」だと思ってくだされば温情的な手立てをしてくださる。

 つまり、敗戦までは労働者と雇用者の間に「労使対等」の考え方は全然なかった。敗戦後のデモクラシーによって、組合が賃金要求する正当性が与えられた。敗戦直後の賃上げ要求は「食えるか、飢え死にするか」の切実感から始まって、1955年に春闘が開始し、賃金要求するのは当たり前になった。

 いまの方々はその重大な意義がわからないかもしれないが、賃金決定に組合(労働者)が不可欠のプレーヤーになったことは、敗戦前と比較すれば天地がひっくり返ったのと等しい。さらに春闘定着によって労使対等が大きく前進したのである。そこから、次は経営参加の道が開いた。経営側にとって経営権は神聖不可侵だという壁に穴が開けられた。

 70年代までの組合活動は賃金闘争が柱であったが、その活動の質を考えれば、「賃金要求は当たり前」→「労使対等」→「経営参加」へと活動がバージョンアップしたのである。賃金が「上がる・上がらない」の面はもちろん大事だけれども、労使関係が着々前進したことにこそ、組合活動の本当の面目があったわけだ。「働かせていただく→働く」という変化は、ひたすら黙々と働くしかなかった時代と比べれば革命的ですらあった。

 賃金は労働力の再生産費である。働く主人公である労働者が正々堂々要求するのだという気風が形成されたのが、戦後の賃金闘争の功績であった。

 ところが、80年代のバブル時代に、目の色変えて要求しなくても賃金が上がった。厳しくいえば、組合はそこで油断して、皆で学び合うことを手抜きした。その結果、労働力の再生産費として要求するのだという主体的見識が希薄になって、「儲かっているから賃金が上がる」と考えてしまう。主体が環境にとってかわられてしまった。そして、90年代にバブルが崩壊すると、「儲からないから仕方がない」になってしまった。

 儲かっているから上がる・儲からないから上がらない、というのは同じ理屈である。その理屈は、敗戦までの雇用者の気分次第の「お給金」とも等しい。つまり、80~90年代を通して、「働く→働かせていただく」へ逆流してしまった。さらに経営側が「employee-ability」(雇用される能力)論を掲げたのも忘れられない。バブル崩壊後の不況に対して効果的に立ち向かえなかったのは、雇用される能力の問題ではなく、「employ-ability」(雇用する能力)=経営責任であったにもかかわらず、見事に働く側へ責任転嫁されたのである。

 なにが問題か? 組合が辿った経営参加の足跡は、いわば賃上げ闘争によって開いたのである。大事は賃上げもさることながら、働く人々が、限定的ではあるが主体的に経営に参加するようになったのである。働く行為を通して経営の意思決定に参加・参画するのだということこそが、働く人の社会的地位の向上そのものなのである。

仕事の3段階

 「働き方の改革」とは納得づく働くことである。では、納得づく働くとはどういうことだろうか?
 わたしは仕事の3段階(仮説)を考える。

 labor  生活の糧をえる。食べるために働く=苦役
 work   仕事に個性を発揮する。したい仕事をする
 action 仕事を通して社会と連帯する。社会的存在となる

 そこで、labor→work→actionの方向をめざすことが社会的自我を実現していくことと重なる。action段階にあると意識できれば、間違いなく人間的成長を感得できるであろう。
 つまり、労働者が求める「働き方の改革」とは、actionをめざすのであり、人間的成長を感得できる働き方であると規定する。

 いま、人々がactionを思い描きながら働いておられるであろうか? 長時間労働で精神的肉体的健康が懸念されるような事情では夢物語だというべきかもしれない。しかし、だからといって、ひたすら食べるためだけに働く仕事人生を歓迎する人はおられまい。働いた結果がなんとか食べられるだけというような労働者が暮らす国を、先進国とは呼びたくない。

 理不尽な働き方で自殺までする労働者がおられる。社会的存在たろうとして自殺する人はいない。自分が「働く」のではなく、「働かせていただく」という精神状態になっているから、仕事が思うように捗らないのはすべて自分が悪いのだという袋小路から抜けられない。

 かくして、actionをめざす働き方を掲げれば(実現するために)、われわれの職場では「なにが問題」で、それを「どうすればよいのか」という「働き方の改革」の視界が開けると考える。

 人(主体)は環境との相互交流を通じて成長するのである。「働きやすい職場で働きたい」とは誰でも願うであろう。自分はなにもしなかったけれども、たまたまそのお願いが適ったとする。自分の成長感が湧くであろうか? 理屈でいえば、単に不満が解消しただけである。

 それでは、自分が求める自由を感得することはできない。職場や仕事に限らず、わたしたちは問題山積の環境で暮らしている。ともすればブウブウ鼻を鳴らして見過ごしているだけではないだろうか。不自由である。不自由に風穴を開けねばならない。

 職場や仕事に問題を感じているとする。これをなんとかしなくちゃいけないと思考する。思いついた改善策が1人では実行できなければ、仲間と相談する。まとまった改善策を試行してみる。「思考→行為」の過程における人は元気である。仮に達成できなかったとしても、その過程で、関係者は確実に自由(元気)を感得するだろう。

 わたしたちが暮らしている世界から問題がすべて解消することはない。1つ問題解決しても、また次の問題が発生する。ギリシャ神話でゼウスに罰を与えられて山頂に岩を運ぶシジフォスとよく似ている。岩を山頂に運べば岩は麓へ落される。シジフォスはまた下って…、シジフォスは敗北しないのである。人間が自由を獲得するということは、シジフォスたらんとすることである。

 他者への理不尽かつ不明朗な従属ほど人の元気を喪失させるものはない。鎌倉幕府以来、敗戦までの760余年、人々は、封建制度と専制国家の権力によって抑圧され、差別され、暴力的支配のもとに置かれた。まあ、そこまで話を引っ張らなくてもよろしいのだけれど、人々がアパシーに支配されているのは当時と本質的には変わらないのである。

「働き方の改革」による組合活動モデルの構築

 連合の社会的影響力が少ない。それは組合員各人の非力と等しい。その非力な600万人が束になれば確実に社会的影響力を発現する。

 ――Σ組合員力=Σ単位組合力=Σ産別力=Σ連合力――

 第一に、職場の組合員1人ひとりが連合である。
 第二に、人は自分の生活自体が目的である。要注意は、「生活≠経済」である。「生活=経済」と置いてしまうと生物的要求の視界に嵌ってしまう。
 第三に、組合員各人の出番を作らねばならない。個人の意思決定の自由度をとりわけ大切にせねばならない。まず、発言の舞台を作ろう。

 結合(組織する)は、人々が思考する結果として発生する。また、大方の人々は環境に背中を押されなければ自分以外のもの・ことに目を向けない。この場合、組合は1つの環境として組合員の背中を押さねばならない。

 アパシーとは要するに自己閉鎖性である。これは幼児的心理状態に等しい。生きること、成長することは、世界と接触する以外のなにごとでもない。まずは、組合が新しい世界=たとえば「話し合い」の場を提供するべきである。

 組合員段階における学習が極めて少ない。1人ひとりの役者が芝居をする舞台を作らなければならない。「働き方の改革」、「労働時間」、WLBなどのいずれをとっても、単位組合で組合員を巻き込んだ学習会が開催されていない。いずれも組合員が主体のはずである。主体抜きで推進される施策では、それがいかに素晴らしいものであっても絶対に奏功しない。

 単位組合・産別・連合(機関)が取り組むべきコンテンツは、人々を支配するアパシーとの闘いである。たとえば、労働時間について簡単なテキストを作成して全単位組合で組合員段階の話し合いをしてもらう。その結果を大々的に社会に向けて発信する。

 「組合員を連合につなぐ活動」という視点で、組合各級機関の活動家の皆さんに立ち上がっていただきたい。

ライフビジョン学会は設立25周年記念事業として、人生と労働の切り口から研究活動を始めています。

   

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奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人