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人生と仕事を繋ぐ労働組合への提言(上)

ライフビジョン学会

球人類の永続性をこそ出発点とせよ        

言葉が踊る 

 昨今、「働き方改革」という言葉の露出度がかなり高い。これは、政府・財界辺りが震源地らしい。10年ばかり前には「WLB(Work Life Balance)」という言葉が、やはり政府・財界から押し出された。

 誰が提唱するのであれ、現状を改善していこうという見識・態度は大切である。だから、わたしはそれに反対するような野暮はいわない。しかし、改革の中味が伴わない胡散臭いものであれば話は別である。

 さらに「人づくり革命」なる大言壮語も登場した。目下の改革に手放しで賛成しにくいのみならず、「革命」という言葉まで動員されると、この間の政財界主導による労働問題関係の提案は、言葉のバブルに見えて仕方がない。

 そこで、「働き方改革」を軸として働く方々と組合に対する提言を試みたい。

「働き方」のコペルニクス的転回

 さかのぼると1970年代後半には「QWL(Quality of Working Life)」が登場した。出所は欧米である。大量生産方式において仕事の細分化・単純化・単調化・加速化が進み、モノを生み出す喜びどころか仕事が苦痛になった。もっと労働を人間的なもの(=労働の人間化)にしようじゃないかという着眼だ。

 これをもう少し砕いて表現すると、従来は「仕事に人を合わせ」ていたが、発想を逆転して、「人に仕事を合わせる」というのである。斬新である。
 表現は地味であるが、意義は決して小さくない。機械が主人公であった働き方を、人が主人公の働き方に変えようというのだから、まさに考え方の革命である。コペルニクス的転回である。

 続いて「QOL(Quality of Life)」が登場した。労働の人間化も大事だが、その前に、人々の「生活の質」こそが、すべての思考の出発点でなければならない。労働と余暇が対立的観念として理解されていること自体がすでにおかしい。まず、人々が自分の生活の質を改善向上させる視点を打ち立てようと提案した。仕事第一から生活第一に変えようというのもコペルニクス的転回だ。
 とりわけQOLが提起した――(人間は)経済的存在のみではない。(人間社会を考えるためには)「人間観」(=人間とはなにか)の構築が必要だ――という視点が貴重であった。はじめに経済ありきを、人間ありきと置くのだから、これも現実に対する考え方の革命であった。

 70年代から地球環境・資源問題に大きく注目が集まった。72年6月5日、ストックホルムで国際人間環境会議が開かれ、「世界環境の日(6/5)」が決定された。「Only one earth」は当時のちょっとした流行語になった。

「働きましょう、働くということは、傍をラクにすることです」というような牧歌的生産第一主義で、企業のゴーイング・コンサーンばかり追っかけていてはいけない。地球人類の永続性こそが出発点であり、目標であるという思考的枠組みの設定である。

現代版「ノアの方舟」

 経済のプロセスは、物質・エネルギーを廃棄物にする。それは非可逆性である。人類が生き続けることは、地球上に膨大なゴミを排出し続けるのだから、それを無視していると必ず行き詰る。正しい危機認識である。

 エネルギー資源も食料資源も無尽蔵ではない。はたまた時々刻々地球は砂漠化が進行している。まともな価値を生み出さない兵器生産など論外である。そしてなによりも、地球人類のゴーイング・コンサーンを阻止する最大の問題は「人口増加」自体にある。事実として避けがたい問題である。

 人間社会のすべての問題を作るのは人間だ。人間は他の動物とは異なって素晴らしい文化・科学を創造したが、戦争も生み出した。他の動物は戦争しない。同種同士の殺戮をやるのは人間だけである。罪作りである。罰当りである。

 核兵器使用による第3次世界大戦が始まれば、これは21世紀的「ノアの方舟」になる。誰を方舟に残すのか? それを考えるのは神であろうか? それを神以外の人間が考えてよいものだろうか? まことに恐ろしいのは、現代版「ノアの方舟」を作り出すのは、信じられないくらい低俗な政治家である! 人間こそが諸悪の根源であるという事実を拳拳服膺しておかねばならない。

 QOLの思想的優越性は、働かなければ個人も社会も生きていけないけれども、経済第一主義に陥没するのでなく、人々が「いかに生きるべきか」という人生観に立脚した生活意識を確立して、以て労働生活(経済)を考えねばならないと主張したのである。これは極めて哲学的な主張であり取り組みであった。しかし、80年代半ばからのバブル経済の喧噪にかき消されてしまった。

目下の日本は思考の逆戻り中

 人口と食料資源の関係を考えれば、単純に人口が増加すればよろしいとはいえない。実際、巨大人口を抱える中国やインドの経済が発展してほしくないと、真剣に語る知識人が少なくない。
 ところが、90年代以降、わが国の少子高齢社会が進むにつれて、産めよ・増やせよ・地に満てよ――とは、さすがにいわないけれども、適齢期の方々にはもっと子供を産んでほしいという財界の焦りがWLBの発議展開になったのは疑いがない。
 わが国の人口は、明治維新当時は3,300万人であり、敗戦当時は8,800万人であった。やがて1億人を切ると警鐘を鳴らすが、狭い国土からすれば敗戦当時まで減ってもまだ窮屈である。要するに、目下の騒動は相変わらず経済成長至上主義で、そのための「労働力」確保に最大の眼目が置かれている。

「働き方改革」の前に考えるべきこと

 仕事時間が生活時間を圧迫している現実において、仕事に軸足を置いたWLBが成果を上げるわけがない。まして、戦前から財界が労働時間短縮に反対し、敗戦後も労働基準法改悪を虎視眈々狙ってきた歴史を見れば、政財界主導の「働き方改革」なるものが極めて怪しく見えるわけだ。

 目下提案されている「働き方改革」は、経営側の「働かせ方改革」の主張である。経営側の「働かせ方改革」を労働者の「働き方改革」と命名することにより、またまた本来の問題の所在が不明確になる。なるほど働くのは労働者であるから、「働かせ方改革」は結果的に「働き方改革」に通ずるといえなくはない。
 そこで、長時間労働を例にとって考えてみる。

 長時間労働は全面的に労働者が選好した結果なのであろうか? そんなことはあるまい。客観的にいえは、労働者の仕事能力が1時間当たり1とした場合、1.5とか2とかの仕事量が与えられているから残業しなければならない。
 法律的には、残業は経営者が就業を命令するのであるから、労働者に帰宅して子育てに励んでほしいと思うのであれば、命令しなければよろしい。

 ところが、どういうわけか、労働者本人が自発的に残業しているという口実が押し出され、なおかつ、実は残業代が欲しくてやっているなどとまことしやかなアナウンスが流れる。つまり、やらなくてよいのに労働者が自己都合で長時間労働しているという構図が作られている。(自己都合=低賃金だからであるが、この際はこの問題には触れない)

 これが本当なのか? とりあえず経営者の言いがかりだと反駁はしない。ただし、働かせ方だというにせよ、働き方だというにせよ、客観的には、労働者の仕事能力1に対して1.5とか2の仕事が与えられているという事実がある。そこで、労使が見解一致するためには、労働者の仕事能力と、与えている仕事について、まず労使がすり合わせして、合意しなければならない。
 これが「働き方改革」に先行する取り組みとして不可欠である。

労働組合の姿が見えない「働き方改革」

 すべての生産(production)は労働が生み出す価値であり、人が労働するのである。健全な労働から健全な価値(商品)が生み出されるといおう。敗戦後、松下幸之助氏が「松下電器は商品を作る前に人をつくる」と名言を語ったが、これは当時の開明的経営者が共有する経営思想であった。

 経営とは、労働者各人の労働を組織して企業活動を作り出すのである。すなわち、① 個別の労働を、② 組織する(=協働)、③ 個人と全体の「最適解」を求めるのであって、これが日常不断に行われている働き方の核心である。
「働き方改革」は、①②のそれぞれ、その流れになんらかの不具合が発生して、③が「最適解」になっていないから、それを改善するところに意義がある。

 労働者は企業との間で雇用関係を締結する。雇用関係は個別であると同時に、団体的労使関係を構築している。したがって、「働き方改革」においては、雇用者「企業」と被雇用者「個人=労働者」「団体=組合」の3者が関係する。

 前述したように、雇用者としては労働者に「このように働いてもらいたい」という「働かせ方」の主張がある。一方、被雇用者の労働者・組合としては「このように働きたい」という「働き方」の主張があるはずだ。

 そこで「働き方の改革」(ここから政財界が提案しているものは「働き方改革」とし、労働者・組合が本来取り組むべきものは「働き方改革」と呼ぶ)とは、本来、働く側の基本的リクエストである。組合は、労働者が納得づくで働くために組織されたのだから、「働き方の改革」は、本来組合の専売特許といえる。

 1970年代に職場環境はあらかた改善された。賃上げも血相変えて要求するような時代が終わった。しかし、気がかりは、バブル崩壊の90年代半ば以降、労働側に覇気が感じられない。労働者が不満なく心地よく働く環境が作られているのであれば上等であるが、どうもそのように安心していられない。職場の気風は極めてネガティブである。

 たとえば労働時間について肉体的精神的健康が問題になる。WLBを引っ張り出すまでもなく、肉体的精神的健康が問題になるような労働の状況が健全な労働であるとはいえない。不健全な労働からは健全な価値が生まれない、という前提に立てば、働く側の「働き方の改革」に対するリクエストは相当強いものであっても不思議ではない。ところが……

 財界が「働き方改革」を提起したのに対して、労働側がチャンス到来とばかりに――そんな程度ではお話にならない。われわれにいわせれば「働き方の改革」は、こうでなくちゃあならない――という要求が大声疾呼されない。現状のものいわぬ風情はとても奇妙である。労働者諸君が極めてネガティブになっているのは、経営側にとっても好都合ではないはずだ。

「働き方改革」提案に対する危惧

 今回の政財界的「働き方改革」に対して、わたしが抱く危惧は、
 a 「働き方改革」と看板を掲げたが、働く人の姿が浮かんでこない。
 b 「あるべき姿」の構想が中途半端でせいぜい現状の取り繕いである。
 c 政治が賃上げを呼びかけること自体が奏功していない。当然ながら……
 d 同一労働・同一賃金はガイドライン的「口実」に終わりそうだ。
 e 年720時間上限罰則では長時間労働是正のインパクトたりえない。

 つまり、経営側には(本当の問題を把握していないようにしか見えない)「働かせ方改革」の本気が感じられないし、労働側には「働き方の改革」への熱意が見られず、当然ながらコンセンサスが作られていない。 単位組合においては運動方針に――制度政策課題に取り組みます――という文言を掲げるが、その手続きは産別に依頼し、以て連合に期待するという内容で、組合段階での取り組みはほとんどないのが現状である。

 今回の「働き方改革」法案は、まず、政治的土俵で考えれば、野党が束になって抵抗しても、与党のぶっちぎりでお仕舞になる。法案として提出される内容が、政労学の知識人によって編み出されたものだとしても、現場事情を十分に反映されているだろうか?

 かつて労働基準法に規定されている内容は、労働側からすれば最低限度のものであるから、組合は常にそれ以上の基準をめざして活動するというのが常識であった。しかし昨今、労働基準は上限みたいである。
 連合は「力と政策」を標榜しているが、政策能力が備わっていると仮定しても、現実に力(組合員全体の力)が汲み上げられるような運動モデルが構築されていないのではなかろうか。

連合結成への組合員事情

 そこで極めて原則的な指摘をしたい。いわく、
 ――連合の力は産別の力の総和である。産別の力は単位組合の力の総和である。単位組合の力は組合員の力の総和である――

 連合は2年後の19年に結成30年を迎える。連合結成は先輩たちの大変な苦心惨憺の賜物だった。なにを苦心惨憺したのか。戦後の組合運動があまりにもイデオロギー偏重で、過激な闘争指導に走ったために、民主的労働運動の道を踏み外した。そこで組合運動からイデオロギー偏重を追い出すことに大きなエネルギーを費やして労働戦線統一を実現したという説である。

 わたしは、これを100%支持するだけの確信がないが、少なくとも労働戦線統一して連合を生み出した中枢の方々がそのように主張しておられるので否定はしない。わたしの活動領域は単位組合であった。そちらの活動家として前記主張を補強してみる。

 イデオロギー対立に関していえば、単位組合内部にも政党関係のフラクションが少なからずあった。わたし自身も『ダラ幹』呼ばわりされた経験がある。ただし、わたしは人の思想を外部から変えることは不可能だから、組織を1人残らず同じ考え方にするなんてことは一切考えたことがない。
 例を引くと、賃上げ交渉の妥結に際して、全組合員が執行部の見解と完全に一致することはまずない。だから、イデオロギーをもつ組合員が他の組合員よりも強硬に執行部攻撃することは必然であった。しかし、ほとんどの場合、時間をかけて議論すれば落ち着くところに落ち着いた。

 生意気をいわせてもらえば、彼らの激烈な! 意見は組合討論における1つの「華」であって、お陰さまで討論に緊張感を持続することができた。大方の組合で一般組合員が、彼らを組織破壊者だと見ていたとは考えられない。

 労働戦線統一とは、すべての組合が大同団結する。4つの中央団体(総評・同盟・中立・新産別)に分かれているよりも1つになったほうが大きな力が出せるだろう、という程度の考え方は誰もが理解していた。しかし、連合結成までの経緯を回顧すると、職場組合員の関心は極めて低かった。単位組合の執行部段階でも熱い期待を抱いて事態の推移を注目している人は少数派であった。

 まあ、それは仕方がない。なにしろ民間の単位組合においては、各種選挙において運動することは多かったが、自分たちが抱えている問題を国政に反映させようという気風が高まっていたとはいえない。まして、選挙を除けば、職場組合員にとって政治は職業政治家に委ねているというのが現実であった。

統一は総評の力量低下が影の主役

 労働戦線統一は当時の総評・同盟・中立・新産別の中央4団体、とりわけ総評の力量低下によって実現した。イデオロギー偏向を批判されたのは総評である。その意味では、総評的路線ではない連合が立ち上がったのだから、統一を推進した方々の達成感が大きかったことは間違いない。

 しかし、わが国の組合運動にとってイデオロギーが本当の問題だったのだろうか? 労働戦線統一がなった1989年は、すでに多くの単位組合において、組合員の対組合無関心が当然とされていた。執行委員選挙に手を挙げて出る組合員はほとんどいなかった。また、80年代はじめから一部の組合が追求したUA(Union Identity)が本格的に実らず、組合運動が長期停滞感を深めていた。

 イデオロギーは、組合の大幹部の間では大問題だったかもしれないが、一般組合員がイデオロギー論争を展開していたのではない。労働戦線統一の本願は、わが国組合運動を「再活性化」することでなければならなかった。

 ――連合の力は産別の力、産別の力は単位組合の力、単位組合の力は組合員の力――であるという原則を前提すれば、連合は、組合員を吸引する運動モデルを第一に確立しなければならなかった。残念ながら、実際は「統一のための統一」で、統一自体が目的化してしまった。組合員→単位組合→産別→連合を固く結ぶ運動モデルを再構築するのが喫緊の課題である。

ライフビジョン学会は設立25周年記念事業として、人生と労働の切り口から研究活動を始めます。

(以下次号「人生と仕事を繋ぐ労働組合への提言(下)」に続く)


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人