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民主主義への挑戦か回復か

渡邊隆之

 2022年7月8日の安倍元首相銃撃事件、そして、2023年4月15日の岸田首相襲撃事件。与野党ともに「民主主義への挑戦であって、断じて許すことはできない」という。

 筆者は、いずれの犯人の暴力行為をも肯定するものではない。民主主義の下では、仮に自分とは反対の意見であっても、公共の福祉に反しない限り、その意見は尊重しつつ意見表明の機会は保障すべきだからである。

 しかし、与野党問わず、今までの取り組みがはたして「民主主義」だと胸を張って言えるのか、再考の余地があるのではないか。もちろん、それらの政党や議員に投票し、監視を怠ってきた国民についても同様の問いが投げかけられる。

 今回の襲撃事件において、警備の仕方ばかりが報道されるのだが、なぜこのような事件が起きたのか、加害者の動機の解明や社会背景にもっと焦点を当てるべきではないか。

 この点については、動機の解明はテロリストの要求を飲むことにつながり同様の事件を誘発することになりかねず解明すべきでないとの意見もある。しかし、それでは抜本的な解決は図れない。今回の犯人については、すでに被選挙権年齢・選挙供託金違憲訴訟を提起し、神戸地裁では請求棄却の判断がなされ、この5月には大阪高裁での判決が出る予定だという。事前に一応の司法手続きを踏んではいる。では、どうしてパイプ爆弾を投げるという蛮行に出ざるを得なかったのだろうか。

 まず犯人が提起した①(参議院議員選挙の)被選挙権年齢(30歳)や②選挙供託金の要否・金額については、選挙制度に関する事項であって国会の裁量事項に属し、著しく不合理と言えない限り裁判所が「違憲」と判断することは難しい。なぜなら、裁判官は国民から直接選ばれるわけではなく、民主的基盤がない。それゆえ、選挙によって選ばれた国会議員により、国会で審議してもらうべきという形になる。しかし、現在の国会は空洞化し、ほとんどが内閣の閣議決定で物事が決められ、国会は審議ではなく承認の場になっている。とすると、違憲か否か提起された問題につき国会で十分な審議を経て解決を図ること自体があまり期待できず、事実上、救済手段が十分に担保されていないのである。

 思うに、選挙権は憲法15条1項で保障され被選挙権も選挙権と表裏一体の関係にあることから同条で保障される。15条3項で「成年者による」普通選挙を保障するが、海外先進国である英仏独蘭加では下院の被選挙権を選挙権と同じ18歳としている。選挙供託金についても泡沫候補等の濫立防止という趣旨は理解できるが、海外の主要先進国では選挙供託金がない、または、(韓国を除いて)低額である。弊害防止については有権者の署名により対処する国もある。日本の国政選挙での選挙供託金は300万円(比例区は600万円)と世界一高く、得票率が一定基準に満たないと没収される。政治を変えたくとも財産のない者は立候補できず、財産による差別として15条3項の「普通選挙」、44条但書、14条に違反するのではないかという疑いもある。政党交付金があることで、既存政党は組織力・資金力の面で有利であるという事情やデジタルネイティブである若年層が意見を国政に反映しづらいという事情もある。以上を踏まえると、人権の最後の砦であり憲法の番人でもある裁判所は国会に対する審議の勧告や自ら踏み込んだ違憲合憲の判断をしてもよいのではと感ずる。

 また、安倍元首相銃撃事件以降、主に自民党とカルト宗教団体との癒着が騒がれ、政教分離原則(憲法20条1項後段3項、89条前段)違反が問われているが、当該団体への質問権は繰り返されるもそのまま有耶無耶にされそうな雰囲気である。有権者も諦めモードで、今回の統一地方選挙も投票率が低い。ネットでは「日本は民主主義風専制国家でロシアと同じではないか」との書き込みも見受けられる。

 広告収入が減っているせいかマスコミも政権への批判・監視が弱まっていて、国民の知る権利(憲法21条)に奉仕する十分な報道がなされているか疑問を感じることも多い。であれば、有権者や国民はより政治を「監視」することで、民主主義的手段で民主主義の回復を図りたい。個々の力は微力ではあるが無力ではない。襲撃事件でなく、平和的手段で多くの人の力で民主主義の回復を図りたいものである。(5/1発表)