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啓蒙か神話か

奥井禮喜

 時代が進んでいくにつれて、科学技術はどんどん進化してきた。ところで、科学技術の進化が人間自体を進化させると単純に考えてよろしいだろうか。一考する価値がある。科学技術の発展にも是々非々の光を当てる必要がある。

野蛮状態へ落ち込む人類

 ホルクハイマー(1895~1973)とアドルノ(1903~1969)は共著『啓蒙の弁証法』を書いた。これは、2人がナチの毒牙から逃れてアメリカに亡命した1947年の作品である。この本が書かれたのは、「なぜ人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の野蛮状態へ落ち込んでいくのか」という問題認識であった。誰でも、この問題認識には全面的に共感するだろう。

 ナチの暴威は、どう考えても納得しかねる。封建的だった日本とは異なって、当時のドイツでは、ユダヤ人が社会的地位をもっており、マルクス以来の労働運動があり、カトリック教会があり、ラント(州)の自治・自主性を誇っていた。人々は十分に啓蒙させていたはずである。それを考えると、なぜ人々がナチの台頭を容認したのか。とても不思議である。

 いろんな説があるが、1つひとつの事件(ナチの所業)は、ほんの少し悪くなっただけで、人々は(自分は)自由だと思っていたという説がもっともそれらしい。始まりは「ドイツの商店」(ユダヤ人の店ではない)という貼り紙だった。それがアウシュヴィッツへの道であった。時間が過ぎてみれば、あれが始まりだったのかと理解するが、当時はなにも考えていなかったというわけだ。

 人間の体そのものまで、資源として活用した科学性・合理性の徹底と、神がかり的にユダヤ人を殺戮した非人間性の徹底をちらっと考えるだけで、科学性・合理性なるものが、それだけでは決して十分条件ではないことを痛感する。

 そして、ナチに対しては使われなかったが、同盟国である日本に投下された原子爆弾は科学技術の力をこれでもかといわんばかりに示した。その偉大な成果としての残虐性との異常な対比を無視することはできない。

 人間の尊厳・生存の意義を軽視した科学技術は、技術としては赫々たるものであっても、人類社会に有害である。理屈は言えるが、「核の傘」などと奉っている現状はいったいどのように説明できるのだろうか。

 ホルクハイマーとアドルノは、人類を野蛮から脱出させたはずの啓蒙自体が退行への萌芽を含んでいると主張する。啓蒙精神によって科学の進歩が歓迎される。一方、進歩のもつ破壊的側面を無視して、啓蒙思想が盲目的に実用主義化し、矛盾を止揚できないままに、真理への関りを失うという。真理との関わりを失えば、啓蒙も神話も同じである。

 啓蒙は世界を呪術から解放した。つまり、神話を解体して、知識によって空想の権威を失墜させた。――呪術時代には、神話が人々を啓蒙した。啓蒙の時代には、知識や科学が神話の誤謬を暴露して神話から人々を解放した。ところが、その後は啓蒙が絶対正しいという神話になってしまったみたいである。つまり、(かつて)神話が啓蒙であり、(いま)啓蒙が神話である。

現代は啓蒙の時代か

 カント(1724~1804)は、「啓蒙とは人間が自分の未成年状態から抜け出ることである」と表現した。これは複雑な理屈を言わなくても理解できる。ただし、未成年状態でない人間は、容易に規定できない。たとえば現実世界を眺めて、誰もが見本にしたい「成年」状態の人間が存在するだろうか。

 逆にいえば、世界のリーダーという立場にある人々の采配で作り出されたのが現代世界である。加齢によるおとなは存在するが、真の成年が存在しない結果、こんにちの世界がつくられたと考えれば、啓蒙いまだならずというべきである。

 世界の富は数字の上では膨大である。しかし先進国のなかだけでも激し過ぎる貧富の格差がある。人間ではなく、国家を中心とした不毛の権力主義で戦火が尽きない。戦争をなくする工夫はせず、自国を守る称して軍事力増強に余念がない.解を求めず策を繰り出す頭はまちがいなく無知蒙昧である。

 さかんに世界秩序の維持を云々する。しかし、その秩序たるや、A国を中心とする秩序でなければならず、A国と国力を競うようになってきたB国は秩序を乱すからけしからん。A国中心の秩序体制を再度強化しようというのが、現在の流れである。この場合の解は、A国もB国もお互いに共同しあうC秩序を求めればよろしい。

 それが国連である。世界秩序をA、B両国中心に考えるのではなく、国連中心に考えれば、両国の覇権争い=国際的離反・紛争・戦争の芽が摘み取られる。この程度の理屈のわからない連中が大国リーダーという実情にある。大国リーダーとは、あたかもやんちゃ坊主のお山の大将がそのまま大人化としているのであって、カントのいう成人とはいえない。

 つまり世界の混迷は、人が人としてきちんと育たないために招き寄せられたと考えれば、人が育つ・社会が育つという視点をおおいに強調しなければならない。たとえば政治家が真理のごとくに「教育は国家の礎」と語るが正しくない。これは国家主義である。正しくは「人が育つ教育」というべきだ。国のために人を育てるのならば、民主主義以前と同じである。

 啓蒙には固定的ゴールはない。固定的ゴールを無意識にでも意識してしまえば神話に転化する。人はいわば野蛮から出発して、人間になろうとする。だから現代が啓蒙の時代なのではなくて、1人ひとりが学び続けることが大事であり、だから世界はつねに啓蒙の時代なのである。

考える意義

 学ぶことは学校時代だけの課題ではない。生涯教育の必要性については大きく分けて次のように定義付けられている。(1946 ユネスコ)

 ①学習は一生継続すべきものである。

 ②学習は人生のあらゆる側面に関係する。

 ③社会変化に対応するためには学習が不可欠である。

 ④学習は学校教育のみに終わらない。

 これは、人間が生涯をかけて「自分がなろうとするものになる」という考え方であり、啓蒙の奥深さを示している。

 パスカル(1623~1662)の「考える葦」という言葉がある。「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか」(マタイによる福音書第11章)から思索し、人間は葦みたいではあるが、「考える葦」だと指摘した。自分の尊厳を求めるべきは自分の思考にこそあるという。

 パスカルによれば、人間は「気まぐれ、倦怠、不安」の存在である。そして、「現在はけっしてわれわれの目的ではない。過去と現在は我々の手段であり、未来のみがわれわれの目的である」と主張する。もともと動物である人間が動物ではない人間に向かって育とうとする。それは、気まぐれ・倦怠・不安のベールの外へ突き進むのであって、その核心は「考える」ことにある。

 生きている限り、人間がものごとを知ろうとする=認識の過程は止まらず継続する。たとえばなんらかの文章を書くとき、

 ①情報を集める

 ②集めた情報を整理・区分・統合する

 ③文章化する

 文章化しない場合でも、同じような活動をくり返している。

 ①は調査(search)、②③が加わって調査研究(research)になる。

 単純なところでは、知らない文字があれば辞書を引く。知った言葉の中身を自分なりに整理・区分し統合する。知らねばならない切羽詰まった事情があれば、余裕がないが、知らない言葉(ことがら)を認識する過程は愉快である。自分なりの知的作業である。

 認識するために考えることは、人間としてきわめて大切な活動である。デカルト(1596~1650)の「われ思う、ゆえにわれあり」の、われ思うは、自主的・自発的な意味を包んでいる。ユーモア居士の林語堂(1895~1976)は、これは誤植じゃないか、「われあり、ゆえにわれ思う」じゃないかとおちょくった。しかし、われありならば必ず思うのではない。学びて思わざればすなわち罔(くら)しという孔子さまの鋭い指摘もある。われ思うという活動があったからこそ、われがある。逆もまた真なりとはいかない。

 1970年代に中高年問題研究で、加齢による労働生産性低下について調査した。加齢で生産性が下がるというのが一般論であるが、実はそうではなかった。単純作業の反復が継続する仕事では、加齢の関係が少し見られたが、考えて工夫するとか、熟練度を要する仕事では加齢による生産性低下は見られなかった。肉体的機能の低下が生産性低下に直結していないのである。

 すなわち、考える・工夫する・鍛えるという要素がある仕事は、人間の成長に有益である。ただし、本人がそれらの要素を嫌っていれば当然ながら生産性は低下する。つまり、加齢の責任ではなく、いわゆる本人の個性や、組織風土に大きな原因がある。

 読書論についても興味深い指摘がある。ショーペンハウアー(1788~1860)は、「読書などするな」と主張した。いわく、他人が書いた本は他人の考えだ。読書ばかりしていて自分の思索を深めないのであれば、自分が他人になるだけである。読書もまた、自分自身の思索を深めるためにこそ生かさねばならない。

科学技術の進化≠人間の進化

 時代が進んでいくにつれて、科学技術はどんどん進化する。科学技術の進化が人間自体を進化させるだろうか。交通手段が進化して、人間はおおいに恩恵を受けている。ただし、人間が肉体的に進化したのではなくて、むしろ退化傾向にある。人間の移動範囲はおおいに拡大したものの、人間の肉体的進化が阻害されることに着目するならバンザイ三唱ばかりしていられない。

 チャットGPTは情報量豊富である。作文能力も並みの手練れどころではない。膨大な情報を集め、収斂した成果を発揮するのだから、すごい技術である。絶対便利である。人間が駆逐される分野が多いのではないかと戦々恐々でもある。いやいや、AIは人間のようなクリエイティブな思考や判断力を持てない。人間が人間独自の特徴を生かし、AIと協力しながらやればよろしいという見解もある。

 さて、「わたし」として人間独自の特徴とはなにか! チャットGPTが悪用される危惧や、真実でないことが混じっているなどの問題があるが、なによりもの大問題は、AIの情報源である個人として、いかなる人間的見識をもっているか。いかに便利な道具であっても、単純に信用し採用するのは危険至極だという認識があるか。

 意識し認識する主体は個人である。知識は意志に奉仕する。情報は他者の意見である。ウラをとるという堅実な活動を放棄できるわけがない。そのためには勉強せねばならない。そのためには健全な懐疑心をつねに確保する必要がある。そのためには考えねばならない。社会全体にドグマが蔓延しないように、「考える葦」を実践せねばならない。


◆ 奥井禮喜

有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家 OnLineJournalライフビジョン発行人