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他国の言葉を学ぶ意味について考える

渡邊隆之

 4月になると、新年度で心機一転、新しいことを始めようと各方面で大々的なキャンペーンが繰り広げられる。書店では、英語を始め色鮮やかな語学教材が沢山平積みされている。

 筆者は、NHKラジオのロシア語講座を1年ほど聴いているが、隙間時間のお楽しみ程度のためあまり上達はしていない。キリル文字が読め、なんとなく単語や語彙の発音が理解できる程度で、細かい文法やら動詞の格変化など怪しい部分が多い。「習うより慣れろ」の精神で日々続けているが、他国語の文法を正確に理解するというよりも別の意味で、楽しみが増えたり新しい視点で物事を分析できたりと、わずかばかりだがメリットを感じている。テキスト教材には、ロシアでの風習や日常のやりとり、ロシア人から見た日本のイメージ、チェーホフ作品など有名な戯曲とその時代背景などの紹介があり、ロシアの現状やいままでの歴史的経緯を把握するにはとても興味深い内容が記されていた。ロシア帝国復活の妄想にとりつかれたプーチン政権の下、ロシア国内での言論統制は厳しいが、もし、自分が同じ境遇にあったとしたら何を発言し、どのように振る舞えるのか、あれこれ想像したりもしている。

 NHKのロシア語講座はかつてテレビでも放送されていたが現在はない。ウクライナ侵攻を契機に西側諸国の反発も買い、ロシアとのビジネスも縮小するであろうとの憶測からか、ロシア語を学ぼうとする人は少数派のように感じる。発売日に書店で置かれているテキスト教材の部数が圧倒的に少なく、すぐ品切れになるからである。

 そもそも筆者がロシア語を勉強しようと考えたのは、当初、ウクライナ避難民支援に役に立つのではと思ったことにあった。ロシア語とウクライナ語とでは語彙の6割程度が共通するのである。しかし、現在も侵攻が続く中、ウクライナ避難民の心情を察するならば、コミュニケーションツールとしてロシア語は使えない。理不尽な理由により自分たちの美しい街を破壊し、大量殺戮をし、人生設計を台無しにした敵国を許せるわけがない。

 ただ、今回のウクライナ侵攻で問題なのは、プーチン率いるロシア政府による、人間の尊厳を軽視する一連の振る舞いなのであり、ロシア語という言語自体には罪はない。ウクライナ避難民とのツールとして使えなくても、ロシア政府によりある意味人質になっているロシア国内の一般市民の心情や、プーチンが独裁政治を固めた歪んだロシアの民主主義的制度を分析するツールとして使えないかと考えている。片言の単語でも知っていれば興味がわき、テレビやネット上の情報にアクセスする頻度も増える。わからない文章についてはgoogleやdeepL等の翻訳ソフトで内容を把握できる。他国の政治体制の歪みやその経緯を知り、過去に同様な事件は起きていないか、その背景はなにか、自国にも同様の危険性はないか、など思考すべきことが次々と芋づる式に浮かび上がってくる。

 他国の言葉を学ぶことはその言語を使う人々の考えを理解すること、そしてその根底にはお互いの人間の尊厳を尊重し、平和的に社会秩序を形成しようと最大限の努力をすることにあるように筆者は感じている。

 今回、ウクライナのゼレンスキー大統領に大きなしゃもじを送った岸田首相とその取り巻きの政治家、官僚たちには別の意味で思考停止があり、海外の状況を読めず、この国の舵取りに重大な欠陥があると考えている。そうであれば、有権者が思考停止することなく、「全体の奉仕者」として適格性を欠く政治家たちに引導を渡さなければならない。あれだけ騒ぎのあった旧統一教会問題についてマスコミは箝口令を敷いているように見えるが、直近には統一地方選もある。他国のいい面悪い面を投票行動等民主的コントロールの手段に生かすべく、他国の言語を学びたいし、最終的には人間の尊厳を守り、安定した社会の実現に努めるべく熟考する仲間を増やしたい。その意味で他国言語の学習を活用したいと思う。