月刊ライフビジョン | 社労士の目から

賃上げ交渉あれこれ

石山浩一

 3月15日の集中回答日も過ぎて賃上げは終盤を迎えている。今年の賃上げは組合の要求に対して大手企業は満額の回答となっている。その背景には人手不足による企業の危機感があるという。その賃上げの集中回答日を控えて政府と労働組合の連合に経済界のそれぞれの代表者による「政労使会議」が開催された。その席上で岸田首相は「中小企業の賃上げのための環境整備に取り組む」ことを強調したという。

 その効果は不明だが、賃上げは労働条件の向上の一環として労使交渉によって解決するものである。

賃上げを拒む「97年労使密約」

 文芸春秋の今年1月号に「賃上げを拒む97年労使密約」という文章が掲載されていた。筆者は77年に日銀に入行して理事などを務めた早川英男さんである。文章の主な内容は物価上昇等に対する日銀の具体的な対応の説明である。しかし、後半では日本の雇用関係について次のように述べている。

 ― 経済が長く低迷したため、個人も企業も日本の将来に期待が持てなくなりました。ここに日本経済が成長しない原因があります。なぜ日本の個人も企業も、気持ちがシュリンクしてしまったのか―私は前々からこう考えてきました。すべての元凶は約25年前といえば、1997年です。当時アジア通貨危機のショックが世界各国を襲い、日本でも金融危機が起こりました。同年には三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券といった絶対潰れることはないと思われる企業が相次いで破綻。さらには翌年には日本長期信用銀行などが破綻しただけでなく、鉄鉱メーカーやゼネコンなど、様々な企業の倒産が危ぶまれていました。

 大手企業はなんとか金融危機を乗り切りましたが、あの時、企業と労働組合の間で一種の密約が成立したのではないか・・・・私は考えています。企業は正社員の雇用を守りぬく代わりに、労働組合は今後賃上げ要求を行わない。労使の結託が成立したのです。以降、春闘やベアのニュースはすっかり聞かなくなりました。連合は2000年代初頭から、毎年春の交渉において、ベアの統一要求を見送るようになりました。09年には一度復活するものの、その動きは13年まで続きます。

 現在に至るまで、見事に“密約”守られ続けられています。企業は雇用の安定を最優先にして、投資も賃上げも控えめになり、内部留保を貯め込んでいった。だからリーマンショックが起こっても、多くの企業が雇用を維持できていました。<中略>

 良くも悪くも雇用が守られてきたわけですが、犠牲ゼロで済むわけがありません。その最大の犠牲者が若者であり、就職氷河期や非正規雇用の増加といった形で表われました。既存の正社員を守るために企業は採用を大きく減らし、若い世代の多くがフリーターや派遣労働者として働かざるを得なくなったのです。

 97年以前の入社組は、既得権益者です。彼らをひたすら守り続けることで、若い世代はどんどん貧乏になっていきました。<以降省略> ―

“賃上げは労使交渉の結実”

 この文章を書かれた早川さんは銀行の中の銀行である日銀の幹部である。しかし賃上げ交渉がどのように行われ、そして決着しているかを理解していないように思われる。また、日銀の行員は国家公務員のため、民間企業のような解雇は不可能なためか、雇用に対する重要性が感じられないのである。

 25年前の1997年(平成9年)に消費税が3%から5%に引き上げられた。更に消費税アップに伴う物価上昇等によって景気は低迷し、多くの企業でリストラが行われた時期であった。そうしたことから95年の失業率は3%を越し、98年には4%となって、非正規雇用者が1千万人を上回る厳しい経済環境が続いていたのである。賃上げ率も94年までの3%台から2%台後半になり、2000年にはほぼ定昇並みの2%以下となっていた。純ベアは1%未満で解決して、雇用を優先させた交渉結果なっている。密約とはひそかに契約や条約などを結ぶことであるが、こうした交渉経過は組合員に報告をしており密約には当たらないはずである。

 「賃上げを拒む97年労使密約」は誰と誰がどんな密約したのかが不明であり、日銀理事まで勤めた識者の文章としては不可解である。まさか現在国会で問題とされている捏造ではないだろうか。賃上げ交渉に携わったことのある者にとって理解しがたい内容といえる。


◆ 石山浩一 特定社会保険労務士。ライフビジョン学会顧問。20年間に及ぶ労働組合専従の経験を生かし、経営者と従業員の橋渡しを目指す。   http://wwwc.dcns.ne.jp/~stone3/