月刊ライフビジョン | 論 壇

さらば、消費者意識

奥井禮喜

 たまたまなんだろうが、地方議会選挙候補者の演説が教えてやるトーンで気に障る。エラそうである。候補者たるものは平身低頭、有権者様はご無理ごもっともというのが生業で、あいつのかみさんは頭が高いと悪評が立っただけで落選した候補者はたくさんいる。教えてやる内容が聞き耳立てるほどでもなく、話もさしてうまくはない。エラそうなところが際立つ。しかも自信満々で、任せときなさい、付いて来ればよろしいと言わんばかりだ。他者と違った雰囲気を演出する工夫なのであろう。

 いや、ひょっとすると、たかが! 議員であるが、エライ存在だと思っているのではないか。エライ議員に挑戦する自分はかなりエライと舞い上がっている可能性がある。その候補者が属する政党では、議員を自慢してどこかのお店で大狂態を演じた報道があった。かかる手合いはできるだけ落選させるのがよろしい。当選させたりすると、ますます増長して周辺に迷惑をかける。

政治の質の劣化

 ポピュリズムとは、一般大衆のものの考え方、感情、要求を代弁しているとする政治上の主張・運動である。ただし、わが国の場合、ポピュリズム党の旗幟が鮮明ではない。そもそも民主主義はあまねく人々の参加を前提としているから、理屈では、民主主義はポピュリズムと同義語である。

 一般大衆とは、社会における多数の人であり、民衆である。労働者・農民など勤労階級をいう。ついでにいえば、権力を行使する立場ではない。ただし、この定義は表面的で雑駁すぎる。つまり、大衆の質が語られていない。

 目下わが国では、「ポピュリズム」が使われる場合、大衆迎合、衆愚政治、扇動政治、少し踏み込んだところでは反知性主義などの意味を持つ。つまり、ポピュリズムは民主主義と同義語ではなく、民主主義の程度を貶める意味として使われている。なにしろ大政党の自民党から群小政党まで、全部当てはまりそうで不愉快千万だが、思いつくままに政治の質の低下の事例を挙げる。

 政策において、国債を増発して一律10万円配れというのは、典型的なポピュリズムである。おカネをもらって嫌な気分になる人はいない。税金の先食いでツケ回しである。本当に必要な人に対する配慮でもない。いわば人のおカネ(税金)で人気(票)を買う。悪質な衆愚政治である。

 かつて、野党や労働団体などが減税を主張し、政府・与党が抗しきれずに減税に踏み切ったことがある。政党それぞれの思惑や取引があったが、その本質は盛り上がる大衆世論を受け入れざるをえず、院内外の合意ができたのであって、これは大衆迎合ではないし、衆愚政治でもない。

 しかし、さっこんの国債増発による大盤振る舞いは、明らかに政治的緊張を欠いている。政府与党は、場当たり的に予算を編成している。大衆的世論が健全に発揮されるならば、院内外の無責任財政批判が巻き起こるのであるが、国家予算の全体像について大衆的世論が巻き起こるのは、かなり政治的に洗練されていなければならない。政治の現実は反知性的レベルになりやすい。

 皮肉な言い方をすれば、国家予算は厳しい大衆的世論が形成されないという全般的事情があり、時代が下がるにしたがって低劣化した。1960年代には、建設予算であろうとも赤字国債は認めなかった。ところが建設予算はインフラであり、大きな価値を生むという理屈で赤字国債を認め、ついには防衛費であっても、建物関係だから建設国債だという屁理屈が登場する。

衆愚政治のサークル

 政治家が大衆をバカ扱いするから衆愚政治である。それが1つひとつ既成事実化して積み重なると、大衆をバカにしている政治家も確実にバカにされる。かくしてのっびきならない衆愚政治が出来上がる。

 あまりにバカバカしいが、安倍氏は、日銀は政府の子会社だから、国債が政府の借金にはならないという演説を全国で吹きまくった。このバカ政治家にして、この国民ありと言うべきか、この国民にしてこのバカ政治家というべきか。洪水と堤防に例えれば、すでに堤防は決壊している。

 地方政治において、知事選候補者が県民党を名乗り、市長選候補者が市民党を名乗る事例も少なくない。それは、いずれかの既成政党ではないと言いたいのであるが、県民・市民の政治的概念が明らかにされた事例を知らない。にもかかわらず、それなりに選挙戦では有力なキーワードになってきた。最大の欠陥は、県民党といえ市民党といえ、抽象化された言葉にすぎない。選挙時のイメージだけで出発するというのは立派な衆愚政治である。

 岸田氏が「聞く耳」を自己宣伝した。いまや、メディアは批判の枕詞に使っている。もちろん、政治はすべて話し合いだから、聞く耳を持たない政治家はいない。人々は、わたしの意見を代弁してくれると思うのだろうが、わたしは1億2千万人分の1である。政治家は神さまではない。神頼みもほとんど効果がない。かりに政治家が聞く耳を持っていても、私の声が届かず、他の人の声が届いている可能性もある。届いてる人の声もあるから、自民党政権が続く。

 聞く耳を持つといえば、(政治家は聞かないと見られているのだから)他の政治家とは異なるセールストークをしたにすぎない。人々は聞くと語る政治家を気分で支持する。選挙が終わった時点で、政治的サプリメントの効き目はお終いだ。効くか効かないかはっきり証明できないからサプリメントであって、薬の認可がされない。岸田氏の支持率は高くはない。しかし、岸田氏を担ぐ自民党の支持率は目立って落ちない。支持率などはまったくの気分である。氾濫するアンケート民主主義なるものは、典型的な衆愚政治を表現している。

日本的ポピュリズムの歴史は古い

 ポピュリストは、ポピュリズムを実践する人である。政治家だけではない。日本的ポピュリストの特徴は、観衆性にある。民主主義制度に代わって80年近くになるが、いまだ、政治的話題が日常会話ではタブー視されている。ましてや、自分の政治的見識を語ることはほとんどない。この特質は、おそらく民主主義以前、封建時代における庶民の知恵=自己防衛が根っこにありそうだ。つまり、わがポピュリズムの歴史は、横文字のポピュリズムより古い。筋金入りだ。

 日本人の性質傾向は、事大主義である。事大主義は、自分の自主性を欠き、勢力の大きいものにしたがって自分の存立を維持する。漱石さんは『吾輩は猫である』(1905~1906)で、「長いものには巻かれろ、強いものには折れろ、重いものには圧されろと、そう、れろ尽くしでは気が利かんではないか」と、猫に語らせているが、日本人的処世術の1つである。

 それと並んで横並び主義である。横に並ぶ、お互いに差をつけない、他人と同じ行動をとる。漱石『草枕』(1906)には、「智に働けば角が立つ、情に掉させば流される」と、社会における人心のあり様を活写している。

 新渡戸稲造(1862~1933)『武士道』(1899)は当時から名著の誉れが高いが、竹越与三郎(1865~1950)は、そんなものは日本人のクリード(信条)にあらず、日本人は義理と人情で生きてきたと喝破した。

受け身思考=消費者意識

 このような気風において、人々の政治意識は、自分が民主主義を担っていると考え、発言し、行動するタイプを形成しにくい。どうしても、受け身思考である。そこをまことに巧みに突いたのが小泉純一郎氏であった。理屈は語らず、短いフレーズで人々の気持ちをくすぐった。「自民党をぶっ壊す!」と吠えつつ、自民党総裁をめざすというのは、絶対矛盾の自己統一みたいだが、観衆を喜ばせるには十分すぎる効果を発揮した。

 大組合のベテラン委員長が挨拶で、「日本が変わる」とスピーチするし、筆者が組合の講演で、小泉政治の怪しさについて語ると、実に冷たい反応が返ってきた。いまでは、小泉・竹中コンビの新自由主義についての批判がある程度定着したようだが、安倍長期政権の下地を作ったのも小泉時代であるし、同氏の知名度はともかく、自民党ならぬ「日本をぶっ壊す!」相当の効果を上げた。安物の英雄待望論は、民主主義にはふさわしくない。民主主義以前の現象である。小泉氏も、氏をおおいに支持した人々も、ポピュリストという名に恥じない。

 山本太郎氏は、野党的立場であるが、その政治的パフォーマンスは、まちがいなくポピュリストである。小泉氏も山本氏も、ポピュリスト政治家はアジテーターとしての能力を持つ。最大の要注意は、ポピュリスト・アジテーターとファシズム・アジテーターは紙一重の関係にある。(もちろん山本氏がファシストだというのではない)

南無阿弥お陀仏になりたくはない

 わが国政治に対する人々の不満は、いわゆる普通の人々=庶民の視点に立ったものでないことにある。たとえば、岸田氏が賃上げを訴える背景は、会社が儲けているのだから賃金に分配してほしいという枠組みだ。これはトリクルダウン論であって、いかにも古臭い。会社の儲けは労働者が生み出すのだから、労働者の生活を確立させることが賃上げの目的だとは考えていない。

 働く人々においても、儲からなければ賃金は上がらないと考える人が多い。もし、それが賃金論であれば、組合的賃上げは基盤をなくすし、組合の存在自体もおかしくなる。企業利益の分配としての賃金ではない。それでは株主利益の分配と同じである。労働者の賃金は、人間の尊厳=基本的人権の1つであり、さらには労働者の経営参加の1つである。

 政治家が人々の声を聞くべきだという考え方は正しい。しかし、考え方が正しくても、算数のように正しい結果が出るわけではない。政治家が人気をかたじけなくするために、ポピュリストを演ずるのは自由である。大事な問題は、人々がデモクラットであるかどうかにある。ポピュリスト政治家がデモクラットであるかどうか。その真贋を見極めるのはデモクラットとしての人々である。

 民主主義なんだから、手を挙げて政治家たろうとする人はデモクラットだろうと考えたいかもしれないが、現実は違う。与党政治家に限らず、野党においても本当のデモクラットかどうかを選別しなければならない。

 わが国の財政は破綻している。いったい、その認識をもつ政治家がどのくらい存在するのだろうか。自民党だけではない。とくと政治家諸氏の見識をうかがっておかねばならない。このままでは南無阿弥お陀仏になりそうだ。

 わが国政治は、民主主義制度ではあるが、その実態は然るべき民主主義の水準に到達していない。単純に図式化すると、――有権者という観衆の前で、玉石混交の政治家がおしゃべりしている。それが、日本的ポピュリズムであり、日本的ポピュリストの姿形である。

 民主主義は個人が出発点である。消費者は王様だというが、民主主義は消費するものではない。参加する個人が作り上げねばならない。ポピュリストを脱して本物のデモクラットになるために、おおいに思索せねばならない。

 今回の統一地方選では、有権者の消費者意識脱却がどのくらい見られるか。期待は外れて予想が当たるという愚痴をこぼさないですむ結果になるだろうか。


◆ 奥井禮喜/有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人