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考える人間・考える社会

奥井禮喜
自我を巡って葛藤した大正の人々

 立春からの寒さは格別効くようで、寝床を出る時、エイヤッと弾みをつけねばならない。エイヤッの少し前はぬくぬくとろとろしていて、必ず思い浮かべるのが広津和郎さん(1891~1968)の自己評だ。「万年床に潜り込んで、とりとめもないことを考えてぼんやりしているのが大好きだ」。作家なのに書きたくて書いたものはない。締め切りに追われ、書けと強いられて仕方なく書いてきたなどと、開高健さん(1930~1989)との対談で語った。開高さんの表現が巧みで、写真でしか知らない広津さんがそこらに寝転がっているような心地がする。

 だからと言って真似してぬくとろしていられない。なにしろ、広津さんは、1949年8月17日東北本線松川駅近辺で発生した列車転覆事件で多数逮捕された人々の救援活動を率いて、一審・二審で有罪だったものを、1963年最高裁で全員無罪に導いたという、どえらい活動実績がある。広津さんが「裁判批判はちょっと楽しかった。クイズを解くような楽しみがある」と語るところまで思い出すと、さあ、もう寝てはいられないエイヤッと立ち上がる。

 わたしは広津作品を少ししか読んでいない。面白いかといえばドラマチックな面白さはない。ところが読み始めると全部読むまで止まらない。飾らない、さっばりした文章である。なにか人生を見たような心地にさせられる。『同時代の作家たち』(1951)では、宇野浩二(1891~1961)や芥川龍之介(1892~1927)の描写が絶品だ。観察眼の確かさ、妙な思い入れがないが親愛感がにじむ。

 広津さんの21歳から35歳が元号でいえば大正である。大正デモクラシーの評価はさまざまだが、広津さんはその代表的人物の1人だと思う。当時は、日本人が自我なるものを巡って思考・葛藤した最初ではなかったろうか。とくに、デカルト(1596~1650)やカント(1724~1804)の影響を感じる。

デカルトの宗教改革

 デカルトのcogito,ergo sum「私は考える、ゆえに私はある」は誰でも知っている。広津さんと同世代の林語堂(1895~1970)は、「私はある、ゆえに考える」の誤植じゃないかと茶化した。それもなかなか意味のある倒置だが、やはりデカルトの主張の通りがよろしい。

 デカルトは、「あらゆることを懐疑した挙句、意識の内容は疑いえても、意識する私の存在は疑いえない」とした。それが、「私は考える、ゆえに私はある」である。考えるから私が存在するんだ。林語堂は存在するから考えるんだとしたが、絶大な力を発揮していたキリスト教との関係を考えると、考えるから私が存在するという主張には、さらに大きな意味がある。

 新約聖書によれば、――初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神である。(ヨハネによる福音書)――

 そこで、――あなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。言は神である。(マタイによる福音書)――

 つまりキリスト教においては、神の言葉以外を考えるなとする。神の言葉以外に言葉がないとすれば、存在しているが考えないのである。考えてはいけないのである。自分の頭で考える人間が拒否された時代に、デカルトは科学的に人間を再定義したことになる。科学も含めて一切合切、神に対しては従うしかない教会論理とその統制に対しては、これもやはり宗教革命である。

 「考える自己」の発見がなければ、人間の尊厳=基本的人権というような言葉が登場することはなかっただろう。

 そしてデカルトは、明晰(clear)と判明(distinct)の概念を掲げた。前者は、概念の内容が直感的に明らかであって、あいまいさを含まない。後者は、概念の内容を構成する要素の性質が、精密に認識されて、他との区別がきちんとできる。それが真理への基準とした。とことん、もうこれ以上は考えられないところまで、考えを煮詰める。しかる後、その記述された結論は明晰・判明であって、他者への説得力をもつというわけだ。

コペルニクス的転回

 カントの大発見は、「認識は対象の模写ではない。主観が感覚の所与を秩序付けることによって成立する」「主観が客観に従うのではなくて、客観が主観に従い、主観が客観を構成する」ということにある。

 コペルニクスの天動説と地動説が入れ替わったことになぞらえて、コペルニクス的転回と呼んだ。

 デカルトの人間=自我に続いて、カントは人間こそが主人公だと宣言した。この2人は、西欧哲学のルネサンスを耀かせたというべきだ。

 貝塚茂樹さん(1904~1987)によれば、大正時代の学生たちは、おおいにカントを勉強したそうだ。そして、カントを理解することは、カントを超越することだという言葉が流行ったらしい。

 国際的な文化を狭い了見で拒否するとか、逆に全面降伏的に吸収するのではなくて、十分に理解してさらに高みに上ろうという。

 弁証法的にいえば、意見A(定立)と意見B(反定立)との対立(摩擦・葛藤)と矛盾を通じて、より高い段階の認識(総合)に至る。いわゆる正反合を成し遂げようという心がけであった。なかなかたいしたものである。

 実際は残念ながら、正反ドボンとでもいうべきで、昭和に入ると満州事変から大東亜戦争の15年戦争に突っ込んでしまった。

 思うに、自我を客観的に理解するところまでで、主観的・主体的に乗りこなす! ことができなかった。そこに、大正デモクラシーが温室的で、あるいは厚化粧であったと痛烈批判を食らうことにもなった。

考える・考えない?

 日本人は、じっくり考えることが不得手みたいである。時代が下って思考型が増えてきたようにも見えない。1人で考えても、社会的には他者の理解を得なければならない。しかし、「正反合」的な討論態度を持つ人はきわめて少ない。戯画的に表現すると、話し合いといえば談合であり、討論といえば勝敗を決するように考えている向きが少なくない。

 戦前からの縦社会意識が強く事大主義であり、一方ではムラ意識とでもいうべき画一主義・まあまあ主義が幅を利かせる。漱石さん流なら、智に働けば角が立つ、情に掉させば流される。これらは昔からの古い体質である。

 さっこん幼稚園から英才教育だが、考える力を発掘・育成するよりも、次々に受験戦争に挑戦せねばならず、正解を求める勉強が主流である。やや、乱暴な表現をすれば、なにごとにも正解があると信じている傾向が心配である。

 さらに正解は科学的に訪れるのではなく、各界・組織内の権威から来る感だ。さいきん権威主義国家を批判するのが大潮流だが、すこし目を凝らせば、日本社会を覆っている気風が権威主義そのものに見える。

 権威主義なるものは実際よろしくない。人々の本音が語られず、当たり障りのない言葉が氾濫する。本音が語られないのは、ずばり問題を考えないか、考えてはいるのだが隠すのである。問題が発生してから、やっぱりそうだったかと気づいても後の祭りだ。これは、われわれの先輩たちの時代と同じ体質である。

 かつての戦争体験者は、騙された、自分が望まぬ先へ連れていかれたと憤った。しかし、誰も責任を取らないし、誰に責任を取らせるべきかわからない。まったく、先人のその体験と同じ体験がただいま進行中ではあるまいか。

 もっと正確に言えば、自分を騙したのは、実は自分ではなかったのか。なぜなら、自身が表面と内心が異なっていることを知りつつ、内心に対して目をつぶっていたからだ。先人の後から来たわれわれが、それと同じ態度を取るのであれば、学習効果がまったくないか、自分を偽ることを選択するかのいずれかである。

 自分自身を偽っても構わないのであれば、すでに失うものはなにもない。本当にこんなことでよろしいのか。考える人が増えねばならない。考える人が少なければ当然ながら社会は迷走し続けるだけである。


◆ 奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人