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安倍氏国葬と政教分離と全国戦没者慰霊式

渡邊隆之

 7月8日、応援演説の最中、安倍元首相が銃撃を受け亡くなった。犯人の供述によると、安倍氏が旧統一教会の親派であったことが動機のひとつとされていた。政府は9月27日に日本武道館で安倍氏の国葬を執り行う旨閣議決定をした。

 7月14日午後の記者会見で岸田首相が安倍元首相の国葬を発表したことに対し、ネット上では「#安倍晋三氏の国葬に反対します」「#自民党と統一教会」等のハッシュタグが立ち上がり、多くの疑問や説明を求める投稿が寄せられている。7月21日には、市民団体が岸田首相を相手取り、国葬の閣議決定や予算執行の差し止めを求める仮処分を東京地裁に申し立てた。「国葬の法的根拠はなく、閣議決定のみによる予算執行は違法。儀式への強制参加は思想良心の自由を定めた憲法19条にも違反する。」と主張した。

 どうして、安倍氏が亡くなり1週間足らずで国葬にしようとしたのだろうか。安倍氏の首相在任期間は最長だったとしても、実績の功罪についての評価が不十分である。また、今回安倍氏や自民党とかかわりがあった旧統一教会は表向きは宗教法人だが、霊感商法や同団体への多額の献金で信者の破産、信者2世の生活困窮など社会的問題を多く惹起している反社会的勢力である。安倍氏を安易に神格化し国葬とするのは、この反社会的勢力に箔をつけることになりはしないか。さらに、遺族である安倍家の意向を十分に聞かずに国葬が決まったとの報道もある。もしそれが真実であれば安倍氏の死が誰かのために政治利用されているのではないか。

 思うに国会は国権の最高機関であり国の唯一の立法機関である(憲法41条)。いくら自民党が選挙で大勝し、国会が空洞化していようとも、国会で予算や法律について可決されなければ、国葬の執行はできないはずである。また、審議の過程で国民が納得できるような説明がなされなければそれこそ民主主義に対する挑戦である。

 併せて安倍氏含め自民党と親交のあった旧統一教会が宗教法人のため、政教分離原則についても触れておきたい。

 政教分離原則とは国家の非宗教性あるいは宗教的中立性をいう。現行憲法では20条1項後段で「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と定め、20条3項では「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とする。また89条前段は政教分離を財政的側面からこれを担保する。

 国家と特定の宗教が結合すると異信徒や無宗教者に対する宗教的迫害が生じるため、国家と宗教とを厳格に分離し、信教の自由をより強く保障しようとしたのである。また、相対的な価値観を前提とする民主主義と絶対的教義を前提とする宗教が結合すると国家を破壊し宗教を堕落させる。特にわが国では、かつて政府が国家神道と結びつき、他の宗教を弾圧した経緯があるため、現行憲法では政教分離原則を規定しているのである。

 個々の信教の自由の保障を完全にしようというのが政教分離原則の本旨ではあるが、わが国では歴史上それだけにとどまらない面もある。それは旧憲法体制下での国家神道が日本軍国主義の精神的支柱として大きな機能を果たし、靖国神社がその中心的な役割を担っていた時期があるからである。

 日本国憲法の基本原理は国民主権・人権尊重・平和主義である。一方、旧憲法体制下の国家神道は神権天皇制のイデオロギーであり(反・国民主権)、個人の信仰に圧迫・干渉・強制を加えてきたものであり(反・人権尊重)、軍国主義の精神的支柱として機能したものであった(反・平和主義)。

 だから、日本国憲法の「政教分離」は単に信教の自由だけの問題にとどまらず、憲法の基本原理を実現するための前提条件ともいえるのである。

 報道をみる限り、与党自民党には宗教団体を単なる集票マシーンのように軽視している議員が多い。また、与党公明党の山口代表は政治と宗教の問題につきノーコメントを貫くが、憲法に規定された政教分離原則との関係で真摯な対応とは言い難い。

 8月15日には、日本武道館で全国戦没者追悼式がある。この国の先達が思想統制のもとどれだけ過酷な状況を強いられ亡くなったか。また、生き残った方々が被爆地や焦土と化した東京などで歯を食いしばって戦後復興に心血を注いできたか。当時の状況を想像すると本当に言葉にならない。今回、旧統一教会と親交の深かった細田衆院議長も三権の長として参列されることと思われるが、どのような思いで臨まれるのだろうか。

 現行憲法や国民を軽視する議員を選出した私たち国民にも責任はある。今回の参議院議員選挙の投票率は52.05%である。安倍氏銃撃は痛ましい事件だが、これを機に政教分離原則と憲法のあり方、この国の将来について再考する機会としたいものである。