月刊ライフビジョン | 家元登場

大衆について-2

奥井 禮喜

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 先月はO.y.ガセット(1883~1955)『大衆の反逆』で、ガセット流大衆論を紹介した。今月は、ガセットより四半世紀先輩のG.ジンメル(1858~1918)『社会学の根本問題』に表現される大衆論を紹介する。ガセットにしても、ジンメルしても、社会は1人ひとりによって作られているという前提である。わが国では、労働組合が大衆運動の老舗のはずであるが、現状ではそれらしい運動が見られない。大衆運動とは、一般大衆が社会的不満に触発されて起こす、現状変更をめざす運動である。もっと広義に考えると、新商品を発売して人々を購買行動にさそうのも、一種の大衆運動である。ワクチン接種に人々が馳せ参ずるのも然り。つまり、大衆が行動を起こすのは社会的不満だけではない。個人がなんらかのニーズをもっており、それを実現しようと集まって行動すれば大衆運動である。個人としてだけではなく、大衆としての行動を念頭において考えよう。

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 シラー(1759~1805)は、「個人としてみると相当に賢明で分別がある。しかし、団体になると彼らはたちまち愚物になる」と指摘した。これが極端になると群衆心理という事態である。ハイネ(1797~1856)は、「諸君が私を理解したのは稀だったし、私が諸君を理解したのも稀だった。諸君と一緒に泥まみれになったときだけ、私たちは簡単に理解しあった」と語った。お互いがすまし顔でつきあっているとき仲間意識は湧かないが、共同してなにごとかに取り組めば、お互いの心理的障壁はなくなる。個人は大衆ではない。大衆とは動的なものであり、精神的か行動的かはともかく、個人が連帯しているとき、参加している各人は大衆になる。消費行動やワクチン接種はこの意味では大衆運動ではない。宗教は精神的大衆運動であろう。イエス・キリストは偉大な大衆運動家であっただろう。いろいろな個性が集まって大衆運動を作るというのは、まあ、妥当であろう。

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 ところがジンメルは、「大衆は、メンバーの完全な個性から生まれた構成物ではない」。「各メンバーの性質のうち、他の人と一致する部分、つまり有機的進化において最低の、もっとも原始的な部分から生まれた構成物なのである」と主張する。簡単にいえば、各メンバーの高い資質ではなく、低い部分から大衆ができるという。そこで、大衆行動は、なにごとにおいても目的への最短距離であり、単純な概念であり、知性よりも感情に支えられるとする。賃上げといえば大衆ができやすいが、生活を維持・改善するために税金の勉強会をやろうというと、簡単に人が集まらないようなものだ。仲間を応援して選挙運動をやるが、政治学習会は面倒くさい。少し、強引に事例を作ったが、まあまあ、そこそこジンメルの主張に合っているだろう。かくすれば、かつて賃上げで活気があった組合が、賃金交渉以外の大衆運動を容易に生み出せない理由と重なっている。

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 ジンメルを勉強して応用したのかどうかは知らないが、ナチの発想は、「大衆は理論的立証に納得するのではなく、アバウトにしか理解できない」「大衆が理解するのは遅く、忘れるのは早い」として、もっとも品性下劣のユダヤ人迫害を持ち出した。個人は自立した知性を持たないから、党に対する忠誠・規律を強く打ち出して惹きつける。命令に追従する人しか認めない。その巨大吸引力は宣伝だった。しかし、すでにお分かりのように、大衆がつねに最低のレベルでしか発生しないとすれば、その社会・集団は絶対に発展しない。人類が現代のような文化文明に到達したのは、優れたもの・ことを各人が理解して共同したからである。ジンメルは、社会の実質は人と人との間の作用反作用であり、相互関係(協力・援助・対抗)の3つを通して、社会・集団を作っていくことを楽しむべきだと主張する。優れたもの・ことが輝けば、人々が相互関係に参加して、大衆運動が発展するわけだ。


◆ 奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人