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選挙する人間としての大不満

奥井禮喜

極まった衆愚政治

 政治家は議会で政治活動、すなわち日々研鑽・研究を積み重ねてかんかんがくがくの論議をおこなう仕事である。しかし、傍目には議会論議の内容が印象に残ることはきわめて少ない。まあ、安倍長期政権においては、安倍氏自身の強引にして強権体質の印象が強く、ほとんど黒の汚職をごまかすために、有能優秀なはずの官僚体制を総動員して、議会審議を実質空転させたことが目立つ。首相の座を降りてからも、与党内で実力を誇示している。成果らしい成果なく、にもかかわらず政界に君臨し続けるのを見ていると、とても心穏やかではない。

 安倍政治の約8年間は、政治ではなく政局騒動の8年間であり、21世紀前半の日本の政治・経済の質を貶めた。北方領土交渉は大騒動して取り組んだものの以前よりも後退した。GDP600兆円目標は雲散霧消だ。少子化対策として、希望出生率なるわけがわからないものを掲げたのも、仕事しているというポーズ以外にはなにもない。まったく安倍政治の総括がないのは大問題だ。

 自民党内部にも真剣な声はあるらしい。自民党財政健全化推進本部の提言に、「過去30年間のわが国の経済成長は主要先進国中の最低レベル」「初任給は30年前とほぼ変わらず、国際的人件費でみても『安い日本』となりつつある」などの主張が書き込まれたが、アベノミクスの評価を落とすものとしてアベノゲキリンに触れ、潰されたという。安倍流采配の要点は、おいしそうな話でレストランへ客を誘うのだが、まずい料理を食わされた事実だけが残った。「アベノミクスのプロパガンダではなく、『失われた30年』を真摯に振り返る責任がある。日本経済の余命はあとなん年か」という声もある。

 安倍氏はパトリオット=国粋主義者・愛国者のはずだが、どうやら厚化粧の素顔は、気位が高く、政治的未熟で、多数派工作と官僚の人事操作が巧みで、政局サーフィンをやった。それが奏功したのは、日本政治の気風が典型的衆愚政治レベルにあり、無為無策にもかかわらず中身があると誤解する――すなわち権威主義政治と民主主義の区別がつかない民度にあるというべきだろう。

選挙と民主主義

 7月10日は参議院議員選挙である。この際だから、選挙と民主主義について少し考えてみた。

 2009年から2022年(今回参議院議員選挙)までの13年間に衆議院議員選挙5回、参議院議員選挙5回、国政選挙が10回になる。参議院議員は任期6年で3年ごと半数改選である。衆議院議員は任期4年であるが、衆議院では2009年から2021年までの12年間に5回だから、平均任期は2.4年である。内閣不信任成立ではなく、首相によってすべて解散総選挙がおこなわれた。

 衆参合わせれば、1.3年に1回の国政選挙があるわけで、これでは地に足が着いた政治がおこなわれるわけがない。いわく、選挙の合間に政治をやる。参議院議員は、解散なし任期6年間だから、相当の研鑽・研究が可能であろうが、おおかたは各政党所属であって、参議院は良識の府でございますとばかり、超然としていられないだろうし、この際はひっくるめて選挙を考える。

 それぞれの選挙の投票率を見る。

 衆議院 2009年 69.28%

     2012年 59.32%

     2014年 52.66%

     2017年 53.68%

     2021年 55.93%

 参議院 2010年 57.92%

     2013年 52.61%

     2016年 54.70%

     2019年 48.80%

 衆議院だけの平均は58.17%、参議院だけの平均は53.50%で、すべてを合わせた平均は56.10%である。有権者の40%以上が投票していない。過密過疎の人口問題から1票の格差が論じられるが、むしろ棄権者が多いほうが問題は大きいだろう。

 1.3年間に1回、さして身近でない選挙の投票であるのに、半数以上のみなさまがお出ましになるのだから、そこそこたいしたものかもしれない。しかし、わが国は民主主義国なんだから、棄権する方々の政治に期待できないという声に注目するまでもなく、立派な政治がおこなわれていると言えない。なお、この場合の政治の関係者は、政治家だけではなく、投票に行く有権者も含む。

 政治的無関心の意識的発言によれば、「誰がやっても同じ」だという。つまりは、選挙結果(投票した人々の選球眼)にも間接的であるが注文がついている。衆議院の2009年総選挙は民主党が政権を獲得した。2012年総選挙では、自民党が政権復帰した。2009年は69.28%で、2012年は59.32%と10%落ちている。2009年の場合、メディアは「自民党に不満・民主党に不安」と表現した。不安な民主党を選んだものの、不安が不満に転化して、棄権が10%程度増えたと考えるにしても、安倍8年間の3回の総選挙は、さらに棄権が増えたので、決して安倍政治がかたじけなく評価されたわけではない。

 やはり、「誰がやっても同じ」意識が棄権者の気風だと考えても大きくは外れないだろう。その棄権意識は不満だと見られているが、本当に不満なのかという疑問が湧く。棄権すれば、どういう結果になろうと甘受しなければならない。そこで棄権者の心理として、a)なにが起ころうと仕方がない=諦念にあるか。b)現在の政治状況が続くという想定で、わざわざ投票に出かけるまでもないと考えているか。――の2通りが思い浮かぶ。2009年総選挙の場合、フタを開けて驚いた人は少なくなかった。それでも30%は棄権していた。そうすると、棄権派の10%程度が、a)b)いずれの考え方であろうとも、動けば変化をもたらす可能性がある。

 ただいまの参議院議員選挙は総選挙ではないし、前半戦では盛り上がりを欠いている。前回2019年参議院議員選挙投票率48.80%が、もう10%引き上がることになれば、ピリッとした政治情景が現れるのではないか。

 新たに投票率を引き上げる可能性を秘めているのは、目下は、大阪から全国進出を狙う維新である。わたしの分析では、維新は、自民党の衆愚政治的八方美人をさらに押し出した政党であり、従来の野党感覚とは異なる。自民別動隊、自民党派閥の一派だと見ているのだが、自民党に投票していた人ではない人を新たに開拓するならば、確実に投票率は上がる。この場合、与野党問わず、既成政党と新興勢力という区分である。

 維新が、維新の期待通り、野党第1党に鎮座すれば、政治体制は、「与党・与党別動隊・弱小野党」の関係になって、a)なにが起ころうと仕方がない――という、待ったなしの「トホホな政治」が開幕する。それなりにピリッとするだろうか。わたしが期待するピリッと政治ではないが、それはそれで仕方がない!

 選挙政党から政治にがっぷり四つの政党へ

 下手な選挙予測はこの程度にする。期待するのは、選挙もさることながら本当に政治家らしい討論が展開される議会である。前述のように、衆議院議員の実質任期が2.4年では、政治家本人が研鑽・研究して見識を磨き、政治家として大成することは期待しにくい。現状の政治体制を続けるならば、政治家は口の人・手の人として異形の人間に育つのがオチだ。中身の伴わない弁論上手など、百害あって一利なし。明治時代に中江兆民(1847~1901)が嘆いたごとく、依然としてわが国の政党は徒党の域を出ず、政党は多頭一身の怪物である。

 政治家においては、常在戦場、田の草取りに汗をかくというが、いずれも選挙に勝利するための心構えである。せっかく就職しても2年少しで再就職活動をしなければならない事態が、果たして政治家を成長させるだろうか。政治のプロならぬ選挙のプロが増えるばかりで、国民はたまらない。

 たとえば、岸田氏が「新しい資本主義」なる大風呂敷を広げたとき、「ソーリ、資本主義をいかに定義しておられるか」「賃労働の矛盾を放置して資本主義が新しくなるものか」「社会主義でないわが国の政府が賃上げに介入しても効果が上がらない」程度の疑問をぶつけた政治家が存在しない。「新しい資本主義」を提示するならば、これは世界的大革命だ。日本だけでなく、伸びきった先進国にとっての福音、ノーベル賞ものである。ところが、議員諸氏が疑問を持たないで、岸田氏のコピーの内容を確かめもせず、丸のみした。これでは議会人と言えない。

 コロナウイルス感染症対策について、岸田氏は2020年以来の取り組みを徹底検証して、今年6月に新たな司令塔を提起すると公約した。ところが検証期間は1か月もなかった。検証委員会が不眠不休で取り組んだとしても不可能である。昨年来、議会の動きを見ていたが、その間、徹底検証を徹底的に監視した動きがない。緊急事態宣言の出し方程度の問題で徹底とは言うまい。日本のコロナウイルス研究体制が、いかなるレベルにあるのか、医療・保険体制がいかにあるべきか、検証しなければならないことは際限がない。「徹底」という言葉は文字通り徹底することだ。デカルト流(1596~1650)でいうなら、とことん「懐疑」して、本当に本当かを追求してこそだ。実際は、徹底どころかお茶を濁すの手合いである。徹底=お茶を濁す――というような言葉が堂々と国会で語られて、しかも問題にもならない。こんなことで、政治家が務まるだろうか。

 安全保障問題も、各党が公約として並べるが、基本的論議がまったくおこなわれていない。防衛費をGDPの2%(5年で達成)というが、中身がない。それ以上に、ウクライナ戦争から敷衍して、中国・北朝鮮の動きが安全保障環境の危険だというが、中国はプーチンのロシアのようなバカではない。北朝鮮がなぜ日本を攻撃するのか。もちろん、日本がアメリカべったりで行動するならば、日本単独とは異なった危険が生ずる。では、日米同盟とは、日本がわざわざ危険を増やすために存在するのか。独立国としての矜持はどこへ行ったのか。目的と手段が混同している。

 軍備による安全保障がいかなる効果を持つのか。A国の軍拡がB国の疑心暗鬼を呼ぶのは常識である。防衛費を増額して、軍備拡張しても、B国がA国の防衛を完璧だと考える保証はない。軍拡自体が、わざわざ緊張を高める。緊張を高めることが、国民の安心につながるわけがない。まして、万一戦端を開けば、自衛隊にお任せ、「よろしくね」ではすまない。わたしは、防衛費GDP2%を達成しても、絶対に安心できない。

 もし、アメリカが本気で国連体制を通じて平和世界を追求するなら、世界の景色はガラッと変わる。こんなことは理想主義だというなら、では尋ねるが、軍拡が緊張を高めて限りなく戦争に近づくことを現実主義と言えるか。自民党政治は、場当たり主義である。場当たり主義が危機を招くのだ。

 政治というのは、軍事力を担保して、暗黙のうちに他国を抑え込むのではない。国対国が緊張を高めるのであれば、その原因を除去するのが政治・外交である。その本筋を抑えずして、アメリカ、西側、G7、NATOと共同歩調を取るというが、日本国としての主体性を放棄して、金魚のうんこになろうとしているのと同じである。アメリカが正義ではない。国連加盟国の半分は、アメリカ的世界戦略のご都合主義に対して不満と警戒心を示している。

 安全保障問題について、議会で本気の議論がおこなわれていない。結局、いまの安全保障論は、与野党問わず問題の核心に迫る努力をせず、上面を恰好づけしているだけではないか。真面目にやってもらいたい。

 なんのことはない、安倍政治に限らないが、適当に政治をおこなって、行き詰まりが見えそうになると解散総選挙をやって、ハイ、生まれ変わりました。ミソギが済みましたと居直るのが、日本的政治である。だから解散・総選挙が政権維持の最大戦略戦術として駆使される。日々みりみりと研鑽・研究に努めるよりも、政局の波に乗り遅れるなという政治屋が作られるばかりである。

 丁寧な仕事をしない人間が、仕事師として成長するわけがない。政治家の評価は、当選回数である。こんなものがなんの役に立つか。仕事をする政治家が増えなければ、日本の政治、まして民主主義が発展するわけはない。いまの日本政治は、民主主義国と権威主義国家の区分でいえば、まごうことなき権威主義国家である。選挙に当選しただけで政治家なのではない。仕事をしてこその政治家だ。

 選挙の合間に政治をしている限り、国民諸氏が政治に開眼することはない。非常に程度を落としている日本的政治について、わたしは満腔の不満を表明する。政党と政治家諸氏に言いたい。選挙政党・政治家ではなく、きっちり党活動の中身を向上させてもらいたい。政党・政治家の研鑽・研究活動を飛躍的に高めることから日本政治を再建しなければならない。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人