月刊ライフビジョン | 論 壇

独立から遠く離れて――軽い日本

奥井禮喜

 参議院議員選挙を前にして、軽薄・浅薄そのものの言葉が語られている。その端緒がプーチンのウクライナ侵略戦争にあることは間違いないが、安倍内閣時代から、防衛費GDP2%論が出没しており、なんとなく浮足立っているこの機を掴まえて一気に軍国主義へ傾斜させようとする自民党の動きは危ない。日本の針路を誤るものだ。

 まず、ウクライナ戦争が、いかなる歴史的経緯で始まったのか。ウクライナ戦争の帰趨が定まらないどさくさにまぎれて国のあり方の基本的論議もしないままに、いままでの平和国家をめざす方針を、さらに軍国主義へと転換するのは、あまりにも無節操、無責任である。

 日本は、どんな国家像を掲げているのだろうか? どんな国を作って、他国とどんなお付き合いをしたいのだろうか? これは国の針路の問題である。さいきんの政治家から、このような前提の話を聞いたことがない。

再出発からつまずいた

 敗戦後、1951年のサンフランシスコ講和条約締結をめぐって片面講和か、全面講和かの大きな問題に直面した。講和条約が締結されなければ、日本の国際舞台での行動が制約される。だから、とくに政財界を軸として、早期独立をめざして講和条約締結を急ぎたかったのは事実である。

 一方、学者知識人グループを軸として、東西冷戦が進むなかで、UNESCOの会議が「戦争を惹き起こす緊張の原因」の声明を発したのをうけて、平和問題懇談会が、1950年1月15日「講和問題についての声明」を発した。主要点は、①片面講和は事実上占領の継続になる。②冷戦下であるからこそ全面講和が東西をつなぐ。③全面講和の可能性を閉ざす軍事同盟締結や軍事基地の提供は絶対避けるべし。④日本は中立不可侵を願い、国連加入を欲する。⑤日本国憲法に則って世界平和に貢献する。⑥経済的自立を達成する。

 1950年6月25日朝鮮戦争が始まった。同12月平和問題懇談会は、「三たび平和について」という声明を発表した。論点は、①米ソ対立は日本を戦争に巻き込む懸念がある。いずれに与したとしても。②東西冷戦のイデオロギーを前提にしていずれかを選択すべきではない。平和共存の理論的基礎付けが大切である。③原爆が登場したことによって、本格的戦争になれば人類は滅亡の危機に立っている。永久平和に基づく非武装原理こそが現実的である。④米ソは覇権国家として起ち現れている。⑤わが国は中立を堅持すべきである。

 平和問題懇談会声明は、平和四原則――①全面講和、②中立堅持、③軍事基地反対、再軍備反対――として、さまざまの反戦平和運動につながった。

 現実はアメリカを中心とする片面講和になり、講和条約の但し書きで、日米安保条約が締結された。米軍の駐留条件は、いま悪名高い「日米行政協定」によるとされた。

沖縄だけが独立を追求している!

 日本国憲法に忠実であれば、つねに全方位外交への道を模索するのが正しい国作りであり外交である。少なくとも、当時、日米同盟論は登場していない。軍事同盟は敵を作る同盟だから、人々の拒否意識が強かった。

 まして、日米行政協定は典型的な不平等条約だから、アメリカ流に対する不満・反感は保守政治家のなかにも少なからずあった。首相が交代するたびに、まずアメリカ詣でをする。将軍家にかしずく参勤交代だという不満が、政治家や新聞論調にもしばしば見られた。いまや、その気配もない。

 講和条約で建前上は独立したが、アメリカの顔色をうかがいつつ外交を展開する悪しき習慣が、やがて定着し、果てはまったく問題意識すらない事態である。沖縄の基地問題に対する国内の冷たい無関心は、1972年「沖縄返還」後も、ますます度合いを深め、一部の人士は、新辺野古基地反対論の人々を非国民呼ばわりする。沖縄問題だろうか。実は冷静に見れば、日本全体がいわゆる「沖縄化」している。沖縄の人々は真の独立を求めているが、沖縄の外では、アメリカへの従属を求めている。治外法権的事態に痛痒を感じないのが、その証明である。

船長なしで大海を漂う

 岸田氏は、西側、EU、NATO、アメリカと結束してというが、なにか、日本らしいウクライナ問題の解決策を提供したわけでもない。まるで、バスに乗り遅れるなといわんばかりだ。防衛費2%論などは、全体が沖縄化している日本が、いまや、アメリカの軍事戦略に唯々諾々従っているとしか見えない。しかも、日本経済は、失われた30年から立ち上がるどころか、ずるずるべったりで漂っているのみである。戦後の、坂口安吾『堕落論』は、現代にそのまま通用する。

 戦後日本の不幸は、東西冷戦において、アメリカの駒の1つにされたことにある。もちろん、戦後の事情からすれば仕方がなかった面を理解せねばならない。しかし、戦後の苦難を乗り越えた時期からこんにちに至る経緯を見れば、独立独歩の誇らしい国作りに政治の焦点が合っていなかった。しかも、ますます自分から従属化を求めているようだ。

自民党は憲法の理想主義を嫌気し、現実主義を標榜するが、ひたすら眼前の事態に対処するだけであれば、大海を漂うのみで、いったい全体、いずこの港を目指しているのかさっぱりわからない。すなわち、現実主義はきれいごとで、実は場当たり主義である。場当たり主義とは、長期的舵取りがない。

 運動の第一法則によれば、「静止または一様な直線運動をする物体は、力が作用しないかぎり、その状態を持続する」のであって、慣性のままにどこまでも突き進むようである。国の針路など、さっこんの政治家は考えておられないのではないか。にもかかわらず、選挙ともなれば、小賢しい口を利くだけだ。これは典型的な衆愚政治である。

軍国主義に反対

 冒頭、自民党は軍国主義に傾斜していると書いた。軍国主義とは、国の政治・経済・法律・教育などの政策・組織を戦争のために準備し、対外進出で国威を高めよう考える立場(『広辞苑』)である。ただいまは、どこかの国が攻めてきた場合という前提をつけてはいるが、問題解決を軍事力に依拠するのであれば、立派な軍国主義である。

 安倍内閣8年間は、さしたる仕事をしなかったが、たまたま、ウクライナ戦争勃発によって、その軍国主義が大幅を効かせる事態を招いている。まことに剣呑である。軍事力が平和をもたらすことはあり得ない。

 戦争は、兵士アスリートが、鍛えに鍛えた腕の冴えを見せ、観衆が日本チャチャチャをやればよろしいのではない。ひとたび戦端を開けば、軍事力が大きくなっていればなっているほど、戦争は大戦争と化し、簡単には止められない。ウクライナ戦争を見ればわかる。西側がせっせと武器を供給しても、このまま進めば、武器を使う人が激減するだろう。いわく、墓場の平和に着々近づいている。

 戦争を知らぬものが戦争を美化する。戦争を知らぬものが圧倒するわが国において、軍事力強化に拍手喝采という不気味な絵柄は見たくもない。

 なるほど、現実世界においては、日本国憲法は理想である。世界は、まちがいなく力の均衡論が支配している。しかし、均衡は破れる。ただいまはプーチンが見本を見せた。その現実は、ロシアにとっても泥沼である。停戦、和平への道を論ずる政治家はほとんどいない。いや、力がないと見るべきだ。

 力のない政治家が、およそ自分の手に負えない巨大な軍事力・兵士・武器を動かす。権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗する――を引用すれば、軍事力は崩壊する、絶対的軍事力は絶対的に崩壊する。軍事力を大きくするというが、いったいいかなる戦争物語を描いているのか。破壊と殺戮の物語に胸躍らすような人間性は、すでに崩壊している。

 まともな人間の心に立ち戻らねばならない。戦争体験を聞いた記憶、少しくらいはどなたさまも学んでおられよう。にもかかわらず、こんどの参議院議員選挙で、あっけらかんと軍事問題が話題になる。わかっちゃいないと言うべきだ。戦争について、少しくらい知ったとしても、それは、不都合な真実が産み落とした結果にすぎない。結果だけをいくら眺めても、問題解決には結びつかない。

衆愚政治極まれり

 軍事力を強化して繁栄する国民・国はない。アメリカは、巨大な軍産複合国家である。経済と軍事が一蓮托生だから、極端な話、世界が平和になれば、アメリカ経済は大混乱を招くだろう。軍事力は、不信感・敵視関係の国々において、スパイラルに強化拡大する。これは、経済の原則を超える。軍事力強化と国民生活の貧困とは逆比例する。アメリカが、国内に抱え込んでいる大矛盾は、大きくみれば軍産複合国家だからである。中国は巨大な人口を擁するから、ここまでは大驀進を遂げたが、これからは人々の生活と軍事の矛盾が拡大するだろう。

 さて、日本は、米中二大国からはだいぶ遠い存在である。経済はこのままではますます下降時代が続くだろう。大国意識は捨て去らねばならない。まして、その思考上で軍国主義に走るなど、正常なオツムのなす選択ではない。このまま進めば、日本はアメリカの衛星国(上品に言えば)に堕する。いや、すでにそうなっているであろう。

 参議院議員選挙の帰趨はともかくとして、独立国としての志が低く、歴史的認識・現実の認識のいずれもきっちりできていない国民・国家が発展する可能性は非常に薄い。みなさまのご一考をお願いする次第である。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人