月刊ライフビジョン | 家元登場

大衆とは何か

奥井 禮喜

 筆者が1970年代に高齢化社会対応の先駆けとして展開した、企業における中高年対策は、数冊の単行本として発表できた。やがて本格化する社会は、きらきらしていないかもしれないが、いぶし銀でありたいと、いずれかの本に書いた。それからざっと半世紀、高齢社会真っただ中である。キラキラしているものも、もちろんあるが、内部から発光しているというより、安物のキッチュなまぶしさに見えることが少なくない。音なら、騒音・雑音・不協和音の類だ。1990年代はじめにバブルが崩壊して以来、まあ、見事なくらい政治も経済も社会も低空飛行を続けている。それなりに期待を込めて書いた本をちらり眺めると、かけ声倒れになったことが証明されていてトホホと呟いてみる。いぶし銀ではない。「失われた30年」の表現も飽きたので、いまの日本的状況を「錆びの時代」と規定する。錆びは取り除かないと、中身の鉄がやがては腐食する。これは避けねばならない。

 こんど、わが読書会ではO・y・ガセット(1883~1955)『大衆の反逆』を読む。9年前に通読してメモを取っている。同書が発行されたのは1930年だ。第一次世界大戦開始から16年、第二次世界大戦開始の9年前、後知恵だが、当時は「病める現代」であった。気鋭の学者がおおいに知性を振り絞って、「人間とはなにか」、「生とはなにか」、「世界とはなにか」、「なぜ生きるのか」などの切り口から理論を展開し、重厚な思想的作物を輩出したのが1930年。非常に思想的な実りが目立った画期である。大戦後のデカダン気風を克服して、人間精神を再興しようという気迫が満ちた作物として、S・フロイト(1856~1939)『文化の不安』、D・H・R・ロレンス(1885~1930)『アポカリプス論』、R・ムージル『特性のない男』、ガセット『大衆の反逆』が論壇を賑わし、翌年にはK・ヤスパース(1883~1969)『現代の精神状況』が続いた。欧州世界は不安定で混沌としていた。

 ガセットが定義する大衆は、普通の人である。自己自身に特別な価値を与えず、自分から平均的存在とみなして平然としている。自分が他人と比べてなんら選ぶところがないと気づけば慄然とするだろうに、むしろ内心では快感すら感じている。オルテガは、社会において目立たない・臭わないことを最善の処世術と考える人が多いのはダメだと断ずる。社会には、エリートと大衆が存在する。エリートは、ハイソサエティとか有名人とか、リーダーなどではない。みてくれエリートではない。見てくれ社会的地位ではなく、社会の1人として、自己に多くの要求を課し、あえて困難と義務を負わんとする人こそがエリートである。自分世界にだけ沈殿するアパシーではない。社会において、自分の個性を最大限発揮しようと奮闘努力する人である。「人間は自分がなろうとする人間になる」という人間観・人生観・世界観をもち挑戦し続ける人である。煎じ詰めればこれだけだ。

 ガセットは、当時を「風潮と漂流者の時代」であると表現した。自分自身を確保せず、社会の風潮を安直に受容する。必然的に人々は波間を漂っている。技術革新で世の中は大いに便利になった。それは、過去の人々の善戦敢闘の結果だということを忘れ、あたかも子どものように自分がサービスされることばかりに関心がある。欧州が不調に陥っているのは、さまざまな制度そのものに問題があるのではない。それをいかに駆使するかの力が落ちている。そして、コミュニケーション能力が低下していることも指摘している。難しい理論ではないが、個性的に生きたいと願って苦闘している人がお読みになれば元気が出る。読んでいるとどうしても、いまの日本的状況と重ね合わさる。社会から、より以上のものに挑戦する気風が減退すると、せっかく大衆が主人公なのに、「大衆の反逆」状態としての閉塞感が深まり、時代が後ずさりする。「失われた30年」の結果は、「錆びの時代」である。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人