月刊ライフビジョン | メディア批評

他人事で済まされない復帰50年の沖縄報道

高井潔司

 5月15日は沖縄が日本に復帰して50年を迎えた。この日、テレビのニュース、ワイドショーではお決まりのように、50年前の復帰式典で、当時の佐藤栄作首相が「本日沖縄は祖国に復帰しました」とあいさつし、「日本国万歳」を三唱するシーンが流された。私はそのたびに「沖縄万歳」はなかったのかと自問した。ネットで色々調べてみたが、それはやはりなかったようだ。返還交渉で掲げた核抜き、本土並み返還の原則、全く骨抜きとなってしまったことを、当の佐藤首相自身、よく自覚していたからだろう。当時の日米の実力と外交力の差から言って、この原則を貫く交渉は所詮無理というもの。虚勢を張ったのが間違いのもとだった。

 それから50年、5月15日沖縄復帰50周年式典が開催され、式典に合わせ、全国紙の紙上では一般記事だけでなく、連載やシンポジウム、世論調査などおびただしいほどの関連記事が掲載された。私はとても読む気になれなかった。この50年間、沖縄の米軍基地負担、本土との経済格差、そして米兵による度重なる暴力事件の発生などに関し、幾度もの首長選挙、国政選挙で民意が示されてきたにもかかわらず改善がほとんど見らなかった。それどころか、政府やマスコミの一部には沖縄の民意分断の動きさえある。式典に合わせたその場限りの同情的記事はもうたくさんという思いが抜けない。

 とはいえ、メディアを批評するのに読まずに批判とはいかない。そこでデータベースを使い、読売、朝日、毎日の記事を改めて読み直した。各紙の特徴が出ていたのは連載記事だった。毎日の「不条理今も」は3回連載で、普天間基地近くの小学校の児童たちが米軍機の騒音におののく姿、貧困と児童福祉の立ち遅れで売春に追い込まれる少女の日常をルポしている。「不条理」がいまなお続く現状を伝えてくれるのはありがたいが、それがなぜ今なお続くのか、それを掘り下げる報道が求められているのではないか。

 それに答えるような内容だったのは、朝日の「復帰50年:なぜ基地は動かないか」だった。4回の連載で、沖縄返還交渉のプロセスや他国の米軍基地をめぐる外交交渉について取り上げ、なぜ沖縄に過重な基地負担が強いられているかを追及していた。第1回目は、「米国務省では73年普天間飛行場について、『人の多く住む地域を低く飛び、目立った騒動も起こす』と問題視され、沖縄からの海兵隊の撤退も検討された。それを引き留めたのはほかならぬ日本政府だった。防衛幹部は同じ年の日米協議で米側が有事に対応するという『目に見える証拠を維持しなければならない』と維持を求めた」という、野添文彬・沖縄国際大准教授の調査を紹介している。野添氏の米公文書調査の結果によると、那覇空港に配備されていた米軍のP3対潜哨戒機の岩国・三沢への移転に関しても、福田赳夫外相が本土への移転は「政治問題を引き起こすので、本土ではなく沖縄の別の基地」にと求め、結局、嘉手納基地への移転となったと指摘している。朝日連載は、米軍の沖縄への集中の背景に「米軍の存在を(本土の視界から沖縄に)遠ざけたい」との日本政府の意向が働いていることを強く示唆している。

 最終回では、ヨーロッパやフィリピンに駐留する米軍基地をめぐるトラブルや事件の発生に関して、各国の政府がアメリカと対等に交渉し、改善へとつなげた事例を紹介している。その上で「日本では到底困難とされることが他国では当然の権利だった。違いを知れば(日本政府が困難と交渉を渋る)地位協定の改定は理想論ではない」との各国の対応を調査した沖縄県職員の言葉を引用している。

 こうして見ると、朝日の連載は毎日に比べかなり掘り下げた内容になっている。最終回の連載を「動かない基地問題の解決に向けたヒントを探る」と連載の中で自己評価している。だが、実はこうした調査や報告はすでに報じられてきたものだ。新鮮味がなく、とても事態を動かすなどとは考えられない。

 ただちょっと唐突だが新しい指摘もあった。それは第3回目「基地問題『視聴率来ない』である。天皇制や原発問題などをタブーとしないことを歌い文句にしている討論番組「朝まで生テレビ」が沖縄の基地問題をほとんど取り上げていないことを紹介し、その理由について、「残念ながら視聴率がこないから」と司会者の田原総一郎氏が答えたというエピソードを明らかにしている。また沖縄タイムスからヤフーニュースに一時出向した記者の証言として、ヤフーニュースで普天間基地の移転先の「辺野古」の文字を見出しに入れるとたちまちクリック率が落ちるという事実を伝えている。つまり、沖縄の基地問題はなぜ動かないかという疑問に、この連載はそれほどストレートな回答ではないが、移転によって新たな騒動を起こしたくない政府の怠慢に加えて、基地問題に対する本土の世論つまり私たち“やまとんちゅー”の冷淡な反応を挙げているのだと、私は解釈した。

 さて一番の問題は読売連載である。「沖縄復帰50年」と題して5回の連載だが、初回は「安全保障 与那国有事の最前線」と題して、中国の脅威が増大する現場ルポから始まっている。要は、膨張する中国の脅威に対処するために沖縄基地は不可欠だということ。2回目は「基地と振興 『辺野古反対』予算に影」は、基地負担の対価として基地周辺に振興予算を振舞っているが、「基地反対」の声が振興予算の削減につながっていると言わんばかりの内容である。第3回以降も、「先端技術と起業」など夢のような話で、経済格差の現実を覆い隠す内容だ。毎日のような沖縄同情論さえうかがえない。

 かつて新聞記者時代、国際問題を担当する「外報部」に移った時、先輩記者から、沖縄は復帰前、外報部の担当で特派員を派遣して取材していたと聞いて驚いた。さもありなん。復帰後は支局が開設され、国内扱いとなったが、常駐する記者は一人ないし数名。地元紙以外は現地印刷ではなく、国内から輸送されるので、一般の読者はほとんどいない。(日本経済新聞は近年、現地印刷されるようになった)。したがって、全国紙にとって、大きなイベント、大事件でもない限り、沖縄問題その日常は現在も他人事のような扱いとなってしまうのも無理はない。

 そんな報道や番組の中で、異彩を放っていたのはNHKスペシャル「OKINAWAジャーニー・オブ・ソウル」だった。この50年間、沖縄は、安室奈美恵、DA PUMP、SPEED、BEGIN、MONGOL800、ORANGE RANGE、三浦大知、Awichら幅広いジャンルで個性的なアーティストを生み出し、日本のポピュラー音楽界をリードしてきた。基地と貧困と共存し、悪戦苦闘する中で、生み落とされた新しい音楽、また再発見され現代風にアレンジされた沖縄の伝統音楽。50年の足取りを音楽と映像で再現した番組だった。最も印象的と私が感じたのはBEGINのリーダーのひと言だった。

 放送で流れた言葉なので、少し違っているかもしれないが、紹介しよう。「この50年間、日本はふるさとを失った。沖縄には人々の心を癒すふるさとがある。どうぞ沖縄をふるさとと思ってください」。

 様々な困難、問題に直面しながらも、しっかりとそれに向き合い生きていく沖縄の人々の間には、誇りと自信も生まれていることを感じさせてくれる番組だった。

 ウソと密約で塗り固められた沖縄返還。だが、平和裡に施政権が返還されたとして当時の首相はノーベル平和賞を受賞。その密約の一端を明らかにした毎日新聞の記者は、「密かに情を通じ」と断罪され、毎日新聞は凋落の一途をたどった。この50年、「国民の知る権利」はないがしろにされ、政治の不正、腐敗を監視する新聞ジャーナリズムの機能は息絶え絶えの状態にある。


高井潔司  メディアウォッチャー

 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。