月刊ライフビジョン | メディア批評

失言から停戦交渉の糸口、か?

高井潔司

 ロシアのプーチン大統領の個人的野心で始まったウクライナ侵攻。大義名分のないプーチンの戦争でロシア軍の士気は上がらず、ウクライナ軍の反撃や国際社会の反発を浴び、短期決戦、傀儡政権の樹立という当初の戦略に狂いが生じているようだ。停戦交渉でも、圧倒的な軍事力を基に一部の地域の併合という力づくの要求を掲げ、交渉の難航は必至だ。ここまで戦況を進めてしまっては振り上げたこぶし、要求のハードルを自ら下げるわけにはいかないだろう。

 そこに飛び出した「プーチンは権力の座にとどまってはならない」というバイデン米大統領の失言。国際的な批判も出ているが、私のみるところ皮肉なことに、かろうじて停戦交渉継続の糸口を与える結果となった。ロシア側も国際的なバイデン批判に便乗し、我々はウクライナの政権転覆を狙ったわけではないと、交渉相手としてゼレンスキー政権を認め、トルコでの対面の停戦交渉を再開させた。

 ただし、プーチンの戦争をストップさせるには、その政権崩壊を待つか、プーチンの顔をつぶさぬよう、どのように彼の要求のレベルを引き下げさせていくかしか術がない。交渉の行く末もいばらの道だ。

 それにしても、ロシア側のフェイク情報の垂れ流しで、戦況さえ真相がわからない。対する西側の分析やそれに基づく報道も憶測でしかない。停戦交渉再開で、ロシア側は「攻撃縮小」と表明しても、西側はすぐ部隊の移動に過ぎないと懐疑的だ。とするとロシアは決して、キエフ周辺で必ずしも苦戦していた、というわけでもないことになる。

 私の文章もここまで推測の連続だ。日本のマスコミに連日登場する防衛研究所の研究員たちの確信に満ちた分析は驚嘆に値する。だが、これも所詮憶測ではないのだろうか。マスコミの期待する「わかりやすいお話」に徹しているが、この戦争はそれほど単純で明解ではない。憶測で物事を論じるより、大事なことはこの戦争がプーチンの反欧米の妄想による大義なき戦争であり、多数の民間の被災者を出しているという基本線を押さえておくことだろう。その基本線を忘れず、新たな事態、情報を判断することが肝要だ。

 ここまで書いてきたら、3月31日付、朝日15面の論壇時評が目についた。メディア研究者の林香里・東大教授の文章だ。8つの論考を評論しながら、結論として「歴史的に戦争には報道統制がつきものだ。なにより、一方が悪でもう一方が正義といったストーリーに陥りやすい。しかし、戦争ジャーナリズムとは、このような単純な構図を越えて、命の危険に晒されている人間一人ひとりの恐怖や苦しみに目を開き、耳を傾け、伝えるものでなければならない」と述べている。誠に同感である。どちらが正義か議論するよりも、いち早く戦争を終結させ、被災者をこれ以上出さないことがまず優先されるべきだ。

 もう一点、元チャイナウォッチャーとして東アジアに住む者として、ロシアの暴挙は決して対岸の火事ではなく、同じ強権体制を取る中国がそれにどう反応するか注目していると、先月の本欄でも書いた。私は中国が同じ強権体制を取るといっても、中国はロシアと違って現在のグローバル経済の受益者であって、その秩序を破壊するような立場ではないと考えている。中国はロシアの暴挙に反対すべきであり、中国にとってはアメリカの対中包囲網を緩和する好機でもある。

 客観情勢は私の指摘がそれほど誤っているとは思わない。朝日3月25日付オピニオン欄に中国の歴史学者、葛兆光氏のインタビューが掲載されていた。葛氏は、「国際社会は帝国主義や植民地主義を批判してきましたが、いまウクライナで起きていることはそれと同じです」と勇気ある発言をしていた。残念ながら中国の習近平政権はあいまいな姿勢に終始し、国連でのロシア非難決議に棄権し、欧米の対ロシア経済制裁には「効果がないし、むしろ民間に悪い影響がある」と反対している。ならば、中国はどうすれば効果的なのか、代案を出すべきだ。双方にパイプがあるのに、仲介にも消極的だ。これでは5月9日付読売社説にあるように「中国はかねて台湾の武力統一の可能性を口にしている。習近平氏が情勢判断を誤って暴走し、ロシアと同じ道をたどることはないのか。懸念を禁じ得ない」と、国際社会の対中警戒感を増すだけだ。

 私の先月の評論を、中国の親しい友人にも送ったが、反応はよろしくなかった。ネット上のやり取りが自由でないので、彼らが本音を語っているかどうか、わからないが、それでも彼らの対米警戒感、反米意識は根強い。彼らが目にする情報では、アメリカがこの戦争を仕掛けていると感じているようだ。

 習近平は異例の3期目の総書記を目指し、権力集中を試みている。だが、彼の指導力は毛沢東や鄧小平に遠く及ばない。毛沢東は大躍進政策や文化大革命などすこぶる評判は悪いが、中ソ論争から対米接近へと大きく舵を切り、世界の局面を変えた。鄧小平は改革開放からさらに市場経済へと転換することで、グローバル化の波に乗り、現在の繁栄の基礎を築いた。二人よりはるかに弱体と言われた胡錦涛でさえ、9.11の際、アメリカの対テロ政策を支持し、自国内の少数民族の独立運動を鎮静化させた。

 ウクライナ問題に対する習近平政権のふるまいは、まったく受け身であり、とても責任大国の指導者と言えるレベルの指導者ではない。それだけ反米意識に捉われているのだろう。アメリカも圧力一点張りでなく、相手側に動きやすい環境を作ることも必要だろう。そうでないと、それこそ読売社説が言うように「習近平氏が情勢判断を誤って暴走し、ロシアと同じ道をたどる」恐れも出てくる。


 高井潔司 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。